木こりと白猫1
東ザナラーン、ドライボーン。
一度迷えば乾いた骨になってしまうと言われるほど、水の気配がない、干からびた大地。
そこに聖アダマ・ランダマ教会はあった。
その夜は、そんな乾いた地を潤す気まぐれな雨が降り注いでいた。
日中とはうって変わって冷え込むその地から、さらに熱を奪い去るように。
「……こんな時間になるとは。あまり気味の良い物ではないな……」
徐々に強まる横殴り雨の中、教会の管理する墓地に一人の大男が現れた。
深夜の暗く不気味な墓地を、きょろきょろと見渡して。
見渡した景色は、闇と雨風に淀んでいる。
墓地を繋ぐ小道にふと視線を向けると、鈍い赤色が点々と落ちていた。
湿った泥の臭いに紛れてはいるが、確かな錆臭さも。
幾度か訪れ、見慣れた墓地に若干の違和感を覚える。
自らのものとは別の足跡に、そしてその傍らに残る赤い斑に、自分のすぐ前に現れたであろう何者かの存在を感じる。
暗がりの中で目を凝らしながら、その足跡を追う。
その何者かは、もつれ、倒れながら進んだのだろう。
並んだ墓石や流れる泥の上には、明らかな血痕が、大袈裟にこびりついた箇所も見られる。
赤い印を辿れば、その先は、粗末な墓が立ち並ぶ一画だ。
旅人や奴隷、看取るものもなく死んでいった誰かが眠る場所。
そんな場所に踞る影がある。墓石に体を、ぐったりと力なく凭れさせていた。
目の前に現れた、明らかに訳ありな様子の人影に、一瞬ためらうように足を止める。
しかし直ぐ諦めたように溜息をつくと、そのまま駆け寄って。
「……おい、行き倒れか?生きてるか」
声を聞き付けた瞬間、ミコッテ特有の耳が跳ねた――――否。身体ごと弾けるように反応した。
金銀の瞳がぎらりと、剣の閃きとともに光る。
「……寄るな!!」
咆哮とともに、ぼろぼろに欠けた剣が振り抜かれる。
「………」
それに驚くでも恐れるでもなく、大男は目を細めて眼前のミコッテの様子を見下ろしている。
「……剣術士か」
不揃いな鎧を纏ったミコッテの身体は細く、傷付いて疲弊していた。
切られ乱れた髪や、濡れそぼった尾は、もとの毛並みの色も分からないほどに汚れてしまっている。
頼りない足で必死に泥を踏みしめながら、大男を見上げる青と金の目は、瀕死の状態にも関わらず、強い感情にごうごうと燃えている。
「忌々しい……!卑しくがめついサルどもめ、っ」
ごほごほと咳まじりに、呪詛と血を吐き出す。
「……随分猛っているが。お前、長くないぞ」
ミコッテとは相反する様な暗く静かな表情のまま、大男は平然と言い放つ。
「お前が何処で野垂れ死のうが勝手だが、まあここなら手間が省けるな。良い判断だ」
「は、ッ……長くない、なら、ひとりでも多く道連れにしてやる!!」
鋭く呼気を吐き出す威嚇音とともに、重たそうな剣を振り回す。
一度振ってはよろけて、二度振っては膝を折り、それでも目の前の男に牙をたてんとして。
怒りと憎悪と、燃えるような負の感情に支配されるだけのようで、些か錯乱しているようだ。
ただただ残った力で振り回されているであろう剣を躱しつつ、距離を取って。
「一人でも多く……?」
その言葉に首を傾げつつ、大男は背負った斧に手を掛けようとする。
「……何か、事情があるのか……それとも、ただの気狂いか?」
「とぼけるなよ、外道!何を要求された、私の目か、毛皮か、身体か!?」
いよいよ泥を削るのみとなった刃に、握る手から血が伝い始めた。
もはや剣を振るう力すらなくなって、憎々しげに歯噛みしながら崩れ落ちる。
「どれも……何も、やりはしないぞ。これ以上、奪われて、たまるか……!!」
「……なるほど。どうやら、事情ありの方みたいだな」
手にした斧を肩に担ぐと、ベルトに下げた物入れから瓶入りのポーションを取り出し。
「その様子だと、追われてるって所か……」
ポーションを名残惜しそうに見ると、ミコッテへ放る。
「……教会の人らに迷惑をかける前に、何処へとなり行ったらいい」
すぐ側に落ちたポーションを、見ようともせずにミコッテは牙を剥き。
「……今度は、懐柔する気か。それとも毒か?舐めた、まね、をッ」
血で湿った咳がいっそう激しさを増して、苦しげに身体を折り曲げる。
雨に打たれて冷えた血が、じわじわと泥に染みて。
「許さない、ゆる、さない、ゆるさないぞ、死んでも……ウルダハの、汚い、下品な、奴らめ」
「体が朽ちるなら、悪霊になってやる、呪い殺して、祟り殺して、殺し尽くしてやる、たとえ、……」
ふっと、それまで憤怒と憎悪しかなかった表情から、悲哀がこぼれた。
雨粒に混じって一筋流れた涙が、鎧に落ちる。
「…………たとえ……精霊に御手を放されよう、とも」
「……ウルダハ、か。成る程。何か勘違いをしているようだが……もし俺が追手だとしたら、わざわざ毒なんぞ渡さん」
何となく事情を察したのか、ようやく斧を背負い直して。
「放っておけばお前は死ぬ」
事情を察して尚、冷たく、短く言い放つ。
「…………そう、やって……騙すんだ、お前ら、は」
弱くなる呼吸を、辛うじて繰り返す、虚しい音が夜の墓地に響く。
一度俯けた顔を上げれば、生気と見紛う眼光で大男を射抜き。
「……騙す気がないならなおさら、放っておけばいい」
「……なら、そうさせてもらおう。俺も雨で身体が冷えたしな」
ミコッテの視線を躱すように目を逸らし、そのまま教会の方向へ向き直って。
歩み出す前に一度だけミコッテと、その傍らに落ちた薬瓶を一瞥して。
「どちらにしろ死ぬなら、試してみたらいい。望み通り俺は行く」
「…………」
歩き去ろうとする大男の背中から、落ちたポーションにゆっくり視線を移す。
瓶は泥で汚れたが、中身に問題はないだろう。
透き通った緑を覗き込もうと、震える指で手繰り寄せようとして、身体が傾いた。
かしゃん。
鎧が冷たい音を立てる。
物音に振り返る。
予想通り倒れ伏したミコッテの姿を見て、それでも去ろうとした。
が。
「……くそっ」
ミコッテへ駆け寄り、その手からポーションを拾い上げると封を開け、中身をその口へ流し込んだ。
完全に意識を手放したわけでないのか、小さな抗議の呻き声が漏れる。
弱りきった状態では、大半を飲み下せずに口角から溢してしまったが、確かにひとつだけ、こくん、と喉が鳴った。
「ちゃんと飲め。死ぬぞ」
頬を押さえ、残りも流し込んで。
溢れた分も指で掬い含ませて。
「……いいか。教会まで運ぶ」
短く言うと、ミコッテの身体を持ち上げようとする。
「……、…………っ」
ポーションで溺れそうになりながら、また、動かされると走るのだろう激痛に顔を歪めながら、虫の息混じりに抵抗や拒否を吐いているようだった。
しかしぐったりと沈んだ身体は、男の腕に従順で、鎧の中身などないのではないかと思う程度には軽い。
「痛むだろうが我慢しろ。死ぬよりはマシだ」
身体と傷の様子を見つつ、静かに軽い身体を抱き上げて。
「……何もしやしない、暴れるなよ?」
「…………!」
痛みと抱き上げられた浮遊感に、ミコッテが微かに表したのは怯えだった。
冷えきった身体を緊張させるが、暴れるほどの、それどころか震える力すら残っていないようだった。
いやだ、はなせ、と何度も囁くように呻く。
「……静かにしてろ。こっちはそこらに放りだしても良いんだぞ」
僅かな抵抗にびくともせず、大男はそのまま足早に教会へ駆け出す。
「…………!」
なら放り出せ、とミコッテは呼気を吐く。
血と泥にまみれた睫毛の間から、不審と、疑心と、僅かな困惑の目で男を見上げる。
その際に、懐かしい香りを感じた。
メープルの木くずの匂い。
草で編まれた服の匂い。
襲ってくる眠気に負けて男の肩に凭れると、懐かしさを求めて、微かに鼻先を向ける。
教会へ着くや否や、長椅子へミコッテを横たえる。
着ていた分厚い作業着を脱ぐと水気を払って、包むように被せた。
「……突然すみません……ええ、治癒魔法を使える方は……」
驚いた表情の神父達に挨拶すると、事情を説明している。
「私も事情はよく……しかし……」
会話の声が酷く遠い。
少しの水気は払いきれないものの、人肌で温まっていた作業着は、心地のいい布団代わりだった。
どうして。
最後にそれだけ、呼気とともに吐き出して、ミコッテはゆっくりと金銀の瞳を閉じる。
本当に微かな呼吸だけが、命の証だ。
「……どうして?」
それだけ聞こえたのか、名も知らないミコッテを振り返って。
シスターによる「ケアル」の光の中で、徐々に穏やかになるその呼吸を確かめながら。
「……さあな。俺にも分からん」
聞こえていないだろうが、小さく応えて。
悔いるように、諦めるように、自虐的に小さく笑った。
- 最終更新:2018-01-29 21:06:29