木こりと白猫5

午後の高い陽射しが降り注ぐ、穏やかな日だった。
精霊という存在を感じることがなくとも、穏やかな森の空気と、どことなく浮き立つ風は誰でも感じることができるだろう。
丸く角の削れた石が転がる、中流域の川の水は、澄んでいて少し温い。
浅瀬で水が温まっているのだ。

付近の住人や冒険者にとって馴染みの水浴場であるそこを目指し、ジョナサンは森の中を進んでいた。
この陽気なら身体が冷えすぎることはないだろうとか、帰りに近くのリンゴ農場へ寄ってみようかだとか、そんな他愛もないことを考えながら歩を進めていると、見覚えのある岩場が見えてきた。

「……止まれ」

鋭い声が、水場から飛んできた。
足音をききつけたのだろう、相手を威圧し、歩を止めるための低い声。それは、最近のジョナサンにとっては、聞き馴染みのある声だ。

不意に掛けられた声に、慌てて足を止める。
岩場を見ると人影がある。先客のようだが、同時に聞き覚えのある声の主に気付き、軽く眉を潜める。

「ん……坊主か?」
「坊主じゃなっ……えっ!?じょにゃ…………お前か!?」

ぱしゃん。
慌てたように水面を蹴飛ばす音がする。
どうやら声の主は、ジョナサンが思ったその人で、陽気に誘われたか水浴びをしているようだった。

「ま、ま、待て。待つか引き返すかしろ」
「……何だ。やっぱりお前か」

声の主がネムだという事を確認すると、無遠慮に水場に歩み寄る。
呆れたように首を振りながら。

「……ここは皆が使う水場だ。独占は感心せんな」
「わっ、ば、あああ」

近付いてくる足音に、あたふたと右往左往するのが、水が跳ね返る音として伝わってくる。
岩影に隠れようか何かで隠そうか、どちらか迷って結局中途半端になったのか、衣服を抱くようにして中腰になったネムの姿が見えるのはすぐだった。
咄嗟のことで全てを隠すに至らなかった白い裸体には、これまでの戦いを思わせる傷跡が走っていて────すらりと伸びる足も、丸い臀部や肩も、細いうなじも、およそ男のものではない。

衣服を傍の岩場へ引っ掛け、手拭いと薬瓶を手にしたジョナサンが改めてネムの方へ向き直る。
視線の先には、ミコッテの「少年」が居る、その筈だったが。

「………ん……ん?」

耳を平らになるほど垂れ下げて、真っ赤な顔の中、唇がわなわなと震えている。
よく見れば熟れて瑞々しい、女らしい唇だが、どうやらジョナサンはその瞬間まで気付かなかったらしい。
小さく丸い指が、さっと自分の靴を掴んだと思いきや。

「っにゃーーーーーーーーーーーーー!!!!」

猫の悲鳴が上がった。
ジョナサンに向かってその靴やら、小石やら流れてきた枝やらがびゅんびゅん飛んでくる。

「っ、つ……!……おい、止せ」

投擲物を両手で防いだり弾き落としたりしつつ、その場から近づく事はしない。
驚き、動転していたが、何より「少女」に歩み寄るのには抵抗があった。

「坊っ……、……ネム!」

ネム。
そう呼ばれた瞬間に、ひくりと少女の肩が揺れた。
何か投げるものを探して指先をさ迷わせていたのも一瞬で、身を翻すと、ばしゃばしゃけたたましい水音を立てながら岩肌に駆け込んで行った。
その間、白い臀部と尻尾は無防備だった。

「ばっ、か、ばかーーー!!!だから言ったのに!!」

柔らかく揺れる白い肌に目を奪われながら、それを振り払うように首を振る。
ネムが奥まった場所に逃げ込むのを確認して、漸く水場に脚を浸した。
その心地よい温度に徐々に冷静さを取り戻していく。

「………何て事だ……」
「こっちの台詞だ!!」

溢れるようなジョナサンの声を律儀に聞き付けて、岩影からぎゃあぎゃあと鳴き喚く。
ばしゃばしゃと断続的な水の跳ねる音がするのは、水面を叩いているからだ。

「ああもう!!もう!!この、この、だからデリカシーのないやつは嫌いって言ったんだ!!」
「……そんな事、俺の知った事じゃない」

騒がしいネムにわざと背を向けるようにして、水場に腰を降ろす。
徐に手拭いを濡らすと、薬瓶の中身をふりかけて身体を清め始めた。

「……すぐ終わる。ちょっと待ってろ」
「……うう……」

ぱしゃん。
水の跳ねる音が徐々に弱くなる。
次いで衣擦れの音。
持ち込んだ衣服に、袖を通しているようだ。

「……別に!ゆっくりすればいいだろ!どうせ私は終わるところだったし……“坊主”とじゃ気まずいことなんかないんだからっ」
「……自分で言うのか……」

背を向けたまま苦笑して、短く呟いた。
薬液のハーブの香りが微かに漂う。
それを刷り込むように、黙々と体を清めている。

「人の裸を見ておいて、のうのうとされてたらそうも思うだろ!」

漂うハーブの香りに、すん、とネムは鼻を鳴らす。
清涼な匂いは嫌いではない。
ホットパンツにシャツを一枚被っただけの、普段よりはずっと薄着で、こっそり岩影から片目だけを出してジョナサンの様子を窺っている。
その視線は主に、彼の左手に注がれていた。

「…………今さら、女らしく見えるなんて思ってないけど」
「何だ、もっと慌てればよかったか?」

背後から視線を感じるが、そのまま水浴を続ける。
ネムから見える筋肉質の大きな背中には、戦場で負ったであろう幾多もの傷痕が見てとれる。

「……それとも、もっと興奮しろと?」

ぱしゃん。
水を蹴り出す音と、すぐ背後まで迫る気配。
ものすごい勢いで、ジョナサンの脳天めがけて平手が繰り出された。

「違う!!このクソバカ!!おたんこなす!!」

続いて広く傷だらけの背中を、悔しげにばしばし猫の手で叩き始めて。

「だって、だって、勝手に男と思われて、別にそれは都合が良いが、謝られもしなければ動揺もされないで、そこまで私には何もないかと思うだろ!?」

不意の平手の勢いに頭が揺れた。
揺らされた脳味噌に、妙にネムの罵倒が響いてくる。

「…お……おたんこ……?」

背中に猫パンチを受ける頃には頭は平静を取り戻したが、続くネムの言葉に、僅かに罪悪感を覚えたようで。

「……すまん」

男の小さな声に、もう一発打ち込もうとした手が思わず止まった。
広い背中には、切り裂かれ、貫かれたのだろう傷が無数に走っていて、そんな武骨な巨体が目の前で丸くなっている。
次にぶつける言葉を失って、苦し紛れにもう一度だけ叩いた。

「……今さら、本当に悪いなんて思ってないくせにっ、ばか!」
「……そうバカバカ言うな。確かにその通りだが」

漸く、改めてネムを振り返る。
今までとは違う薄着の姿はやはり、良く見なくとも少女のそれだった。

「……鎧やら、ぶかぶかの服やら着ていれば分からん。俺がただ鈍いのかも知れないが……」
「分かれ、ばか!!」

シャーッ、と鋭い呼気と共に牙を剥いてみせる。

「あれほど坊主じゃないって言ったのに何にも疑いもしないで、……」
「大人ぶりたいから、そう言っているのかと……」

捲し立てようとしたネムの勢いがふと削がれると、自身の頬を押さえながら、そっと水面を覗き込む。
日の入りようによっては鏡面のようにもなる水で、まじまじと白い顔を見て。

「……そんなに男みたいだろうか……。昔から、落ち着きがなくて男の子みたいだと言われてたが……」

ネムの言葉と、水面を覗く様子に思わずジョナサンは苦笑して。

「……見た目は兎も角、その性質はな……仕方ない」

む、と眉根を寄せてジョナサンを見下ろすと、ぱしゃんと水面を蹴って飛沫をひっかける。

「それにしたってお前は鈍すぎだぞ!……まあ、私だからまだ良かったが。次はないし、きっともっと酷いからな。目を養っておけよ!」

ぷん、と鼻先を背けると、するする水面を蹴り分けて、浅瀬の側の岩に腰かける。
日差しで温まっていて心地の良い温度だ。
気持ち良さそうに体と尻尾を岩の上に伸ばすと、その足先だけはまだ水に遊ばせる。

引っかけられた飛沫をものともせず、ざぶりざぶりと水を被る。
滴のしたたるまま、水辺のネムを目で追って。

「自信はないが……お前の事は、覚えておく」

ジョナサンの言葉に、訝しげな金銀の瞳が細められた。
午後の風に、さらさらと真っ白な髪が揺れる。

「…………。それは……そりゃあ、これで私が女だと覚えなかったら怒るだろ」

何かを誤魔化すように、水面を巡る足先に視線を落とす。
何も棲まない、美しすぎる水だ。

「それともそこまで頭が鈍ったか?先が思いやられるな」
「そうだな。次に会った時には忘れているかも知れん」

ネムの悪態を躱すように、自嘲気味に笑う。
滴る水分を雑に払うと、一息ついて。

「また坊主と呼んだらすまんな。先に謝っておく」
「お前な!!そんなだからいつまでもここいらに馴染めないんだぞ」

ごうごうと吠える勢いは、怒気というよりも心配の意味が強い。
膝を抱えればくるりと尻尾も体に巻き付けて、小さくなってみせて。

「……バスカロンが気にしていた。顔は見せるが、必要以上に喋るのを見ないと。やっぱりヒトは苦手か?」
「マスターが……」

色々な意味を含んだ、短い溜息が漏れる。
思惑を感じさせないように逸らした視線は、ただ水面を眺めて。

「……俺の目的は、交流じゃないからな。静かに暮らしたいだけだ」
「…………」

逸らされた視線を掬い上げるかのように、ネムは首を傾げてジョナサンを見つめる。
ゆっくり瞬く色ちがいの瞳は、気遣わしげだ。

「平和に暮らしたい、ということなら、隣人も疎かにしない方がいいぞ。お前はただえさえ苦労するんだから……」

笑うような呼気を語尾に混ぜると、ぽんと岩から跳んでジョナサンの方に歩み寄る。
側で膝を折って、両の手のひらを見せれば、左手を見せろという合図だといつのまにか決まっていた。

「友達が欲しい訳じゃないんだが……」

水辺に移ると、傍らに寄ってきたネムに左手を任せた。
先程の言葉と相反して、妙に自然な流れになっているのが自分でも可笑しくて、ふと笑みを溢す。

「別に、友達を無理やり作れなんて言わない。でも知り合いくらいは作っておいて…………何だ?」

そっと手を握る調子も、傷を避けながら手を揉む様子も、慣れたものである。
笑みを溢したジョナサンの顔を、まるで見慣れないもののようにまじまじと眺める。

「……口では、どうとでも言えるんだが」

ネムの視線に、笑みを誤魔化すように目を伏せて。
そのまま預けた左手を見ると、ネムのすっかり慣れた手つきが見える。

「……結局、逃れられないな……」
「…………」

白い指が、傷ばかりの手を握り込んだ。
癒すために揉むでもない、熱を移すだけの行為。
慈しむような気配だ。

「……失うなら、初めから遠ざけておいた方が楽か?」
「…………」

沈黙。
だが、それが答えを表していた。
左手に感じるネムの体温が心地好かったが、それに慣れてはいけないとも、改めて思う。
静かに温もりを遠ざけるように、手を取り上げて。

「……そうだな。私もそう思う」

そう言いながら、遠ざけられようとするその手に、なおも取りすがる。
金銀の、満月のような瞳が、ジョナサンを覗き込んで。

「お前の失ったものの大きさは分からないし、話されなくても良い。何にも心乱されないのが、きっとお前の平和だろう。でも……」

小さな指が、きゅっと武骨な手をきつく握る。

「冷たさに慣れてはだめだ。……本当の静けさはなくなってしまう」
「………」

答えられる言葉が無い。
ただただ短気で粗暴な若者だと思っていたが、時折こうして、心を揺らす言葉を投げかけてくる。
取り上げたはずの左手は為されるがまま、当然のようにネムの両手に収まり直していた。

行儀よく収まったジョナサンの左手を、あやすように、ぽんぽんと撫でる。
瞼を落とせば、長い睫毛まで真っ白なのが目立った。
口を閉じれば、皮膚の下をごうごうと流れる血潮の脈動が、手指から伝う。
せせらぎや葉が擦れ合う音。
遠くアンテロープが鳴く声。
小さな虫が土を踏んでいく。
静寂にはいつでも雑音がついて回る。

「……輪の中にいるから、正しい静寂がある。……ヒトが恐ろしいのは仕方ない、また少しずつ慣れたら良い。……この森だけはずっと、きっとお前の味方になってくれる。ここに住まう人も、生き物も」
「……どう、かな」

漸く声を発した。
ネムの言葉は、その両手同様に優しいものであったが、それを素直に受け入れる事はまだ出来そうにない。
短い返答は、それに対しての皮肉を漏らしたつもりだった。

「きっと大丈夫だ」
その、抵抗にも近しい皮肉は、ネムには通じなかったらしい。
笑っているつもりで頬をひきつらせて、明るい瞳でジョナサンを見上げる。

「……きっと、与えられるものの方が多くなる。そうだ、そのためにも森を少しずつ案内してやるぞ。どうせ必要な場所しか歩いたことがないだろう。美しい場所も、美味しい木の実が生るところもあるんだ」

相反するように暗い瞳が、ネムの視線を受ける。
その不器用な笑顔に思わず苦笑して

「……まあ、良いさ。時間ならある」

ネムの誘いに、ジョナサンは幾度か頷きながら答えて。

暗い瞳を、底の方まで見つめようとするような、真っ直ぐな金銀の目だ。
ジョナサンが頷くのに合わせて、ふわふわと尻尾が跳ねる。
嬉しいときの動きだと、ジョナサンには分かっただろうか。

「うん、そうしよう。何処から行こうか……長老の木に挨拶はしたか?シルフたちにも声をかけよう、それから、それから」

指を折りながら、あれこれと言い出してみせる。
その白い頬は微かに色づいていて、はしゃぐ年頃の娘に見えた。

「そう慌てるな。逃げやしない」

あれやこれやと、はしゃぐネムを微笑ましく思う。
他人の心配ばかりのこの娘も少しは気が紛れるだろうか。
自分も少しはこの娘のためになれるだろうか。
そんな事を考えながら、ジョナサンはネムの様子を眺めていた。

  • 最終更新:2018-04-02 19:24:39

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