木こりと白猫6

弾むような足取りが、ゴブリンたちの野営地に近付いてくる。
柔らかく草を踏む音は、小柄で、軽い身のこなしのミコッテのものだ。
木陰から白い顔と耳を覗かせれば、深緑の合間に目立つその色を、何人かのゴブリンが見つけて親しげに手を振ってくれる。

「……豆にも飽きたな。そろそろ……」

炒っただけの豆を手の平で玩びながら、大男がぼそりと呟いた。
その横に座るゴブリンが応えるように、自分の腹を撫でている。
ふと、眼前の水面が揺れたと同時に何者かの気配を感じて、大男は周囲に目を配る。

波紋が連なる水面に、するりと白い人影が映り込むが、それも一瞬のこと。
隠れ鬼でもしているつもりか、気配は間近にあるのに姿が見えない。
くすくす笑うような呼気が聞こえる。
大男はその気配に、相手が何者かすぐに気づいたようだった。その代わりにゴブリンが慌てた様子できょろきょろと辺りを見渡している。

「……追いかけっこもかくれんぼもごめんだぞ」
「何だ、横着だな」

微笑を言葉尻に残したまま、足音が大男の近くでひとつ鳴る。
木の上から降ってきた割には軽い音。
白く整った毛並みの尻尾をくゆらせて、ネムは無遠慮に男の手元を覗き込んだ。

「……また、質素なものを食べて……」
「……食うか?」

ネムの視線を追って、手の平に乗った豆を差し出す。
横のゴブリンももの欲しそうにそれを見ていたが、ジョナサンは断るように頭を横に振って。

「……お前にはさっき分けただろう。ダメだ」

ゴブリンにそう言い含めつつ、改めてネムを見る。

「うーん……」

唸りつつも、丸っこい指先が、ジョナサンの手から豆を一粒つまみ上げた。
瑞々しい唇の奥に放り込むと、かりっと乾いた音がする。

「……これで腹の足しになるのか?」

訝しげに目を細めながら、ジョナサンとゴブリンを交互に見る。

「……ごまかしにはなる」

言いつつ、自分も一つ口に運ぶ。
ゴブリンがまだ見ているのに気付き、諦めて手の平を差し出す

「……だが、さすがに飽きてきた所だ」

ゴブリンが嬉しそうに、5粒も6粒もいっぺんに持っていくのを、呆れた目でネムは眺める。
その視線を、傍らのジョナサンにもじろりと向けて。

「もっと美味しいものを色々食べろと言ってるのに、いつまでも腰の重い男だな!……ようし」

ぴょん、と跳ねるように真っ直ぐ立つと、ジョナサンに手を差し伸べる。

「ちょうどいい、行くぞじょなしゃ……じょにゃ……」
「……ジョナサン、な」

差し出された手を、空になった掌が握る。
嬉しそうに豆を食べ続けるゴブリンを軽く小突きながら、のっそりと立ち上がって。

「はて……俺も用足しに行こうと思っていたんだが」
「じょ…………用足し?」

繰り返そうとした名前の代わりに、疑問が口をついた。
何となしに大きな手のひらをきゅっと握り返しながら、ネムは首を傾げる。

「……豆には飽きたからな……」

握られた手を僅かに気まずそうに見て。
それを誤魔化す様に、素直に問いに答える。

「フォークスのリンゴ園を知ってるか?リンゴを買いに行こうかと思ってな……」
「飽きる前にそうしたら良かったのに」

ジョナサンの気まずそうな視線の意味は分からないまま、ゆらゆら繋いだ手を揺らす。
やはりちゃんと意識をすれば、娘らしい、柔らかい手指だ。

「でも、いいな、フォークスのリンゴか。早く行こう!今は少し青いだろうが……それでも囓って美味いし、パイにしても美味い」
「……行くのか?一緒に」

繋いだまま揺れる手がそろそろ気恥ずかしくなったのか、手を引こうとして。
二人を見るゴブリンの体が密やかに震えている。
笑っているようだが、ジョナサンは気付いていない。

「?」

ぎゅ。

引かれそうになる手を訝しんで、ジョナサンが逃げないようにと微かに力を込める。
肩を震わすゴブリンの様子に気付いて、思い思いに過ごしていた他のゴブリンたちもわらわら見物に集まってきた。

「ついでだから、その周りを案内してやる。約束しただろう?」
「約束……」

集まってきたゴブリン達の視線に居心地が悪くなって来たのか、諦めたようにネムの言葉に頷いて。

「……分かった、行こう。……だが、手は離してくれ」
「にゃ…………」

ジョナサンの言葉に二度三度瞬きすると、初めて見るものに驚いたような目で、ネムは繋いだ手を見下ろした。
青白い頬に赤みがさして、あたふたと武骨な手を解放する。

「わ、わ、すまなっ、あの、そういうつもりじゃ……こら!見物するな!!」

身を寄せあってケタケタ笑いだしたゴブリンたちを、散らすように丸っこい拳を振り上げる。
逃げ惑うゴブリンを片っ端から捕まえては水に放り込んで、しかし何やら楽しそうな催しの様相である。

「おいおい……」

暴れ出したネムにも、放り投げられて楽しそうなゴブリン達にも、半ば呆れるように短く呟いて。
喧騒をよそに、リンゴ園に向けて歩きだした。

「あっ、こら、何で置いて行くんだっ……」

最後の一人を放り終えたところで、歩き出したジョナサンに気付き、慌ててネムはその背中に追いすがって来る。
一度振り返って、次々水から上がってくるゴブリンたちに手を振って。

「行ってくるぞー!悪さしないでいたら、美味いものを食わせてやるからな!」

うまいものー!うまいもーのー!歓声が聞こえる。

「やれやれ……」

こちらへ、というよりはネムに手を振るゴブリン達を見渡して、ジョナサンは一つ溜息を吐く。
ようやく駆け寄ってきたネムに視線を移して。

「……お前はまた、そうやって世話を焼くんだな」
「にゃ?」

ジョナサンの、暗い色の瞳と視線を合わせてネムは小首を傾げる。
さくさく草を踏む音は、ジョナサンよりずっと軽く、小刻みだ。

「……お前のことはともかく、あいつらの世話をしてやってるつもりはないぞ?」
「……お前にそのつもりは無いんだな……」

ふ、と僅かに声を漏らして笑う。
果樹園までの見慣れた道を進みながら。

「……苦労するぞ。これからも、きっと」
「何だ、分かったような口で!」

ネムはむっと口を尖らせると、先を行く背中にじゃれつくように、うろうろ肩越しの表情を覗き込もうとして。

「別にこのくらい、損ではないんだし……」

簡易的に造られた木製の段差を登っていけば、果樹園になっている。
初恋の味とも名高いリンゴが赤く熟れて生っていて、それらがたっぷり収穫された木箱の近くでは、リンゴ園の主であるフォークスがのんびり休憩をとっていた。

「フォークス」
「……ああ、ギデオンさん!毎度ぉ」

ジョナサンが声を掛けると、こちらに気づいたフォークスが愛想良く笑いかけてきた。
その笑みに応えるように、挨拶代わりに片手を上げて。

「休憩中だったかな。すまない」
「いやいや、今日もリンゴけえ?」

男の声。
咄嗟にジョナサンの広い背中に隠れてしまいそうになったが、別段警戒する相手でもないと踏み留まる。
顔を出したネムと、フォークスのきょとんと瞬いた視線が重なった。

「……あんれまあ!ノラんとこの娘っこじゃあねぇかよぉ?」
「うっ……意外と覚えられてるものだな……」
「……何だ。知り合いなのか」

フォークスとネムを交互に見やる。
顔見知りでもおかしくはないだろうが、一応確かめる為に、どちらへともなく訪ねる。

ジョナサンの問いに、へらへらとフォークスが答える。

「そーりゃあギデオンさん、この子は昔っからこの森さ住んでっからよぉ。こーんな小せぇ頃からノラが連れ回してたべ」
「……母のことだ、私の」

勝手に話されることを悪くは思っていないが、やはり少し気恥ずかしいらしく、白い尻尾の先が行き場の無さそうに左右している。

「母親……」
「んだ。しっかし、大っきくなったなァ。母ちゃんは……」

時折ネムの零す母親の話を思い出して、ジョナサンは話の続きを遮るようにフォークスに語りかける。

「あ、っと……ところでフォークス、リンゴなんだが……」
「ああ~、んだんだ!いげねぇなぁ、つい昔話に花が咲いちまってよぅ!」

特に気にする風でもなく、フォークスは、今日採れたばかりだというリンゴがぎっしり詰まった木箱を開け始める。
それを眺めていたネムの金銀の瞳が、ジョナサンを見上げた。

「…………気にしてくれたのか?」
「……何の話だ」

そう短く答えると、フォークスに続いて木箱を覗く。
ネムにも見るようにと手招きして。

「さあ見てってけれ。つっても、どれもこれも採れたてだけんどな。んめえぞォ」
「……良いタイミングだったな。さあ、ネム」
「…………」

相変わらず頬がひきつるようではあるが、ずっと柔らかな、零れるような笑みを見せた。
白い尻尾を嬉しそうにしならせながら、うきうきとジョナサンの横から木箱を覗く。

「……本当だ。どれもつやつやしていて綺麗だ……少し青いのも酸味があって良さそうだな」

あれこれと手に取りながら、輝く金銀の瞳でジョナサンを見て。

「じょなしゃ…………お前、甘い方が好きか?」
「ああ。果物は甘いものに限る」

表情を変えずにネムに即答する。
その様子にフォークスが噴き出した。

「だからここに来た」
「ンだなぁ。ギデオンさんはうちの大ファンだもんなあ」
「ああ」

気にせずリンゴを見るその目は、いつもより幾らか明るく見えて。

「ふっ……」

フォークスにやや遅れて、ネムも噴き出す。
彫りの深い顔立ちに立派な巨躯、たくましい顎も、まるで肉食の装いであるのに、甘い果物が好きだという。

「何だ、お前。可愛いやつだな」

深く考えず、言葉が零れる。

「………」

今の言葉は聞き逃せなかったのか、ぴたりとリンゴを選ぶ手が止まる。
ぎこちなく振り返ったジョナサンの顔は真顔のままだが、口元がむずむずと引きつっている。
それを見たフォークスが愉快そうに笑い出した。

「………お前な……」
「ふふ、だって、そんな図体で、まるでこどもみたいだ」

ジョナサンの反応も、フォークスの笑い声も意に介さず、木箱の底の方からリンゴを混ぜっ返す。
赤く熟れた果実に鼻を寄せて、詰まった蜜の匂いを嗅ぎながら。

「うん、これがきっと甘いぞ。それからこれも……」
「こりゃ意外だぁ、ギデオンさんが手玉にとられでらあ」
「……止してくれ」

リンゴを一つ取ると、ギル硬貨を何枚かフォークスに手渡して。
あとのリンゴ選びをネムに任せて、早速それを齧る。

「あとは、その娘が選んだやつを包んでくれ」
「はいよ。毎度ォ」
「任せろ、とびっきり甘そうなやつを選んでやる」

嬉しそうな白い尻尾が、するりと一度ジョナサンの腕になついていって離れた。
親しげな仕草は、他人の──フォークスの目には、ただならぬように映っただろう。

「金は私も出せるぞ。半分負おう」
「もう払ってある。ゆっくり選べ」
「んだ。二人分もらってっから」

言いながらうまそうにリンゴを齧るジョナサンを見て、フォークスも嬉しそうにうんうんと頷いている。
大きな一口で、リンゴはみるみる消えていく

二人分。
その言葉に、ネムは不安げな顔を木箱から上げる。

「……大丈夫なのか?……そのぅ……」

思い出したのは、先にネムが、ジョナサンの木材を買い付けていたララフェルの商人を殴り飛ばしてしまった事件だ。
あれからバスカロンドラザーズで買い取ってもらっているらしいものの、収入の如何に関しては聞いていない。

「……何だ。リンゴを買う金くらいある」

ネムを安心させる様に言いつつ、もう一つリンゴを取る。
ギル硬貨をもう一枚渡すと、フォークスが嬉しそうにそれを受け取った。

「お前がマスターに口利きしてくれたからな。それ位は……」
「…………そうか」

安心した吐息が、ぽろりと零れ落ちた。
それから、傍目にも分かるほどに甘い香りをまとうリンゴを手に取って、これだ、とネムは掲げる。
フォークスに渡せば、持ち帰るようにと布袋にくるんでもらえた。

「さすがはノラの娘っこだべ。選ぶ目が違ぇなぁ」

フォークスの言葉に、ネムは苦笑いのように唇の端を上げる。
リンゴの入った布袋を大事そうに抱えて、もうひとつ果実をとったジョナサンに歩み寄る。

「……いいのが選べたみたいだな」

母親の名が再び出た所で、気遣うように言葉を掛ける。
たんまりリンゴの詰まった布袋をネムの腕から持ち上げ抱えると、代わりに半分に割ったリンゴの片割れを手渡した。

「お前も食っていけ」
「……あっ」

軽々リンゴを割ってみせたジョナサンを、手品でも見るような輝く目で見たのも束の間。
軽くなった腕と渡された半分のリンゴを見下ろして、慌てて袋を取り返そうと跳ね回る。

「い、良い、私が持つ。あんまり手に負担をかけるのは……」
「いい。細かい作業が苦手なだけで、力は有り余ってる」

布袋を軽々頭上まで持ち上げて見せた。
それがネムを跳ね回らせる要因になっているの気付かず。
二人の様子をフォークスがにやにやと見つめている。

「あっ、あっ、こら、調子に乗るんじゃない、だめだ降ろせってば……」

あたふたと手を伸ばして周りを右往左往するネムと、避けるジョナサン。
完全にじゃれあう二人である。
にやついたフォークスの表情に気付いたのは、ネムが悔しそうに歯噛みしながら諦めたところで。

「………………何だその顔は」
「いや……羨ましくってよお。オラも嫁っこ探してんだども……」

その言葉に、ジョナサンは頭上の布袋をゆっくり抱え直して。
妙に冷静な顔でネムを見つめる。

「………」
「……。……。…………」

その言葉の真意を読み込むのに、ネムにはずいぶんな時間が要った。
やっと察したときには、いつも青白い顔が燃えそうなほどに赤くなっていて、瑞々しい唇が震えている。

「よっ、よ、嫁じゃない!!そんなのじゃないぞ!!」
「あんれぇ!違うんけぇ!ギデオンさん今からでも遅かねぇよぉ~、リンゴの味が分かる娘っこ早々いねぇよぉ~?」
「フォークス!!」

「……あまり揶揄わないでやってくれ、フォークス。……一度熱くなったら大変なんだ、この娘は」

ネムと対照的に、妙に落ち付いた様子で言葉を紡ぐ。
ありえない、と態度で示しているつもりのようだ。

「釣れねぇなぁ~。んじゃあオラんとこさ嫁にくるか~?」
「ばーか!!」

にっこにっこと楽しそうなフォークスに渾身の悪態をつくと、ネムはさーっと走り出してしまった。
あっという間に白い尻尾が遠ざかる。

「おい……ネム!……ネム!!」

呼び掛けにまったく応じず走り去ったネムを見て、ああ、と思わず声が漏れる。
フォークスは残念そうに肩を落として。

「あんらぁ……オラぁ、ちょっと本気だったんだけんど……」
「……ちゃんと相手は選んだ方がいいぞ。やれやれ……」
「お、行くのかい?毎度どうも!あの子にもよろしく言っといてけろ」

フォークスとの挨拶もそこそこに、ジョナサンはあっという間に遠ざかったネムの後を慌てて追いかけ始める。

風のような速さで走り去ったにしては、意外と近くで見つけることができた。
火照った頬のまま、ネムはいつもの仏頂面を更に険しくしながら、果樹園の側の岩影で小さくリンゴを齧っている。

「ネム!ネ……」

すぐ傍で発見し、つんのめるように足を止めた。
あまり刺激しないように、ゆっくりと歩み寄って。

「……うまいか?リンゴ……」
「…………おいしい……」

ぶすくれた調子で呟くと、ジョナサンよりはずっと緩やかなペースでリンゴを齧る。
一口の大きさがまず違う。
かりかりと音を立てる甘い果実と、共に別のものも飲み込んでいるような様子だ。

「そうか。良かった……」

ネムの傍らに立ったまま、彼女を落ち着かせようと静かな声で続ける。

「フォークスも悪気があって言ったわけじゃない、あまり怒ってやるな……まあ、ひどい誤解だったが」

「…………あの……」

にわかに赤みを増した顔を袖で隠す。
真っ白な耳を情けなく垂れ下げて、蚊の鳴くようなか細い声で。

「……お、怒ってるわけじゃ……あんなふうにからかわれるなんて、思ってなくて……お、お前にも、悪いことしたな、あんな、あんまり嫌がるようなことを言って」
「……いや、俺は……」

嫌なわけではなかったが、悪いジョークだと否定するのもネムに悪い気がした。
そう説明する言葉を中々紡げないでいた。

「……すまん」
「おっ、お前が謝ることない、あの、大丈夫……」

思わずぱっと立ち上がりながら捲し立てるが、その勢いも徐々に落ちて、ついでに恥じらった金銀の視線も爪先に落ちた。
齧りかけのリンゴを握る手に力がこもる。
もじもじと尻尾の先が揺れている。

「……だ、だいじょぶ、だぞ」
「そうか………それなら、いい」

ネムの様子に、僅かに心が揺れた。
が、本人が大丈夫だと言うのならと、幾度か頷いて見せる。
気を取り直すように一息ついて。

「……さて、リンゴは買った。あとはどうする」
「あっ、えっと、そう、だな。そうだな……」

手元のリンゴを見つめながら、ネムは少し唸る。

「これも美味いが、おやつみたいなものだし……ムントゥイ醸造庫が近いな。夕飯はムントゥイ鍋にしようか?」

火照った名残を頬に残しながら、ちゃんとジョナサンの顔を見上げて、微笑む表情を見せる。

「ムントゥイ鍋か……じゃあソースを売ってもらいに行こう。さっきの炒り豆よりは食いでがありそうだ」

いつもの引きつった笑みと違い、ちゃんと微笑んだネムに釣られるように笑顔を見せて。
空腹を思い出したように、ふと腹を撫でる。

「うん、野菜と鶏肉をよく煮込んでな。ゴマも入れて…………」

自分の表情に返ってきた笑顔に、何故か気恥ずかしさを感じて、再度視線を落とす。
誤魔化すように踵を返して、先立って醸造庫を目指しながらリンゴを頬張る。

「と、とにかく行くぞ、じょにゃ……じょなしゃ…………」

「ジョン」

鍋を想像しながら、僅かに急ぎ足なネムに続く。
よく自分の名を噛む事には気付いていた為か、短くそう応えて。

「……それなら、呼び易いか?」

金銀の瞳が振り向く。
満月のような丸い瞳が、ぱちぱちと瞬いて。

「……じょ、ん。じょん……ジョン?」

幾度か、口に慣らすように繰り返してみる。
呼べているかどうか、ジョナサンの様子を窺いながら。

「それでいい」

どこかホッとした様子で、また何度か頷く。

少しの間沈黙すると、また小さく、ジョン、ジョン、と繰り返して。
嬉しそうな尻尾が跳ねれば、蕩けそうな笑顔がついてくる。

「……うん!これなら呼べる」

そうして醸造庫の方へと向き直ると、独特の香りに向かって、行進するような足取りで突き進む。
機嫌良く耳まで跳ねさせて。

「ジョン。ジョンか。ふふ、行くぞ、良いものがきっとある」
「そう慌てるな……俺もムントゥイも逃げないぞ」

そうしている内に、ムントゥイ豆醸造の際に出る癖のあるにおいが漂ってきた。
ネムの様子を微笑ましく眺めながら、ジョナサンは醸造場の様子を見渡す。
作業している人々を興味深く観察しつつ、ネムの後を追いかけていく。

するすると醸造庫に入って行けば、より強いムントゥイの香りが、質量をもって身体にぶつかるようだった。
思わずネムの顔も、如何ともし難く形容もしがたい、くしゃっとした表情になっている。

「ごめんください、ムントゥイソースを……あ、ほら、ジョン。あそこの施設でムントゥイを搾るんだぞ」

作業員達の視線に対し、会釈で返しつつ屋内を進む。
ネムのしかめっ面にあ然としつつ、すぐ充満する臭いの所為だと気付く。

「……大丈夫か?おかしな顔になってるぞ」
「だいじょぶだ……」

名状しがたい顔を、袖でごしごしと擦る。

「ムントゥイは好きなんだけど……ここではいつもこんな顔になってしまうというか……。ミコッテなら、一度や二度くらい、経験があるとは思うぞ」

フレーメン反応顔を少しでも何とかしようと、まだ食べ終わっていないリンゴを鼻先に持ってくる。
醸造庫で働く人々も、その行動の真意に気付いているのだろう。
楽しそうに笑うことこそあれ、嫌な顔をするものは誰一人としていない。

「そうか……まあ、皆さんも分かっているようだから良いか」
「うん……震災で移転したとはいえ、伝統の場所だからな。冒険者なり、商人なり、いろんな人が見学や買い付けにやってくるし」

そんな話をしながら、ジョナサンと共に醸造機を眺める。

興味深くタンクや醸造器を覗き込む。
奥へどうぞという声に、ジョナサンたちは遠慮がちに奥へと進む。

「確かに癖のあるにおいだが、あまり嫌には感じない……ゴブリンの傍で生活しているからかもな……」

少しずつタンクに満ちていくムントゥイソースは、とろみを帯びているように見えるほど濃厚で艶めいている。
そばで醸造を見守っていた作業員が、一掬いムントゥイソースを差し出す。

「良かったらひとくち如何です?搾りたてで美味しいですよ」
「ありがたい。さあ、ネム」

庫内に満ちたにおいとは違い、ソースからは香しい薫りが漂う。
ひと舐めしてみて、ネムにも味見するよう促して。

「うん……」

相変わらずくしゃっと顔を萎ませたまま、一舐めする。
舌触りのよい、風味豊かなソースを口の中で転がして、たまらずネムは声を漏らす。

「んんー……やっぱり美味しい!想像してみろジョン、ここになっ、好きな肉と野菜を入れてなっ」
「確かに、これはうまいな……鍋が楽しみだ」

ネムの感嘆に同意しつつ、どうやら器具やタンクの方に興味があるようで、そちらを眺めていたが。

「うん……腹が減った」
「……ふふ」

ジョナサンの呟きに、笑う機微を見せて。

「さすがに豆とリンゴじゃもたなかったな。よし……この瓶で、ひとつ……ちっちゃいのもひとつください」

ムントゥイソースがなみなみ注がれた、大小の瓶をそれぞれひとつずつ買う。
それらを大事そうに受け取って、ジョナサンの側で揺らしてみせた。
たぷん、と豊かな音がする。

「行こう、きっと……ここよりすごい匂いのする連中が、腹を空かして待ってるぞ」

先程のジョナサンの発言をわざわざ掬い上げて、にまりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。

「よし。ほら」

大瓶をネムから取り上げると、リンゴの布袋と一緒に抱えて。
ネムの言葉に思わず、ふと笑みを零して。

「今度近くで嗅いでみろ。きっとあの表情になるだろうからな」
「あ……」

重いものを持ってくれているジョナサンに、気恥ずかしげな視線を向けて。
続く言葉に、今からくしゃりと顔を歪める。

「……わざわざ嗅ぐのも嫌だな……」
「まあな……でも、良い顔してる」

真似をするようにジョナサンは顔を歪めて。
自分で噴き出し、くっくっと笑ってしまう。

「癖になる表情だ」

ジョナサンのその顔を、ぽかんと表情を取り落とした金銀の満月の瞳が、食い入るように見ていた。
そのままさっとネム自身の、にわかに熱を増した頬を隠す。
忙しなく尻尾をくゆらせながら、沸き上がる恥ずかしさとそれ以外の感情を振り落とさんばかりの勢いで駆け出す。

「うっ……れしく、ないぞ、そんなところを言われても!!」
「……お、おい!……気を付けろよ!」

作業員達に頭を下げると、再び駆け出したネムを追う。
何となく、彼女に対する接し方が判ってきたように感じて、微笑ましさと自分への戸惑いを感じて。

「……やれやれ……いかんな」

「また二人でいらしてくださいね」

不意に、ジョナサンにそんな言葉が投げかけられる。
仲睦まじい様子のふたりに、いつの間にか周囲は温かな目を向けていたのだろう。
ネムを追っていくジョナサンに会釈する者もいる。

やはりネムは醸造庫を出てすぐ近くにいて、何故か悔しげにリンゴの残りを頬張っているところだった。

  • 最終更新:2018-05-17 11:22:38

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