木こりと白猫8

月を厚い雲が隠す、冷える夜だ。ゴブリンたちが野営するキャンプでは、焚き火が煌々と、光と熱を周囲に届けている。
その少し離れた水辺で、ネムは夕飯に使った鍋の片付けをしていた。森で採れる野菜をふんだんに入れて、甘く煮込んだスープを作ったあとだ。
少しずつ量を食べるようになったジョナサンの様子を思い返して、こっそり微笑む。
鍋を漱いだ水は深く掘った穴に埋めて、冷えた手を温めに、そろりと火の側に戻る。

ネムの料理を平らげた後、その場から離れて酒盛りを始めたゴブリン達の歓声が聞こえる。それをよそに火の番をしていたジョナサンだったが、暖かさと満腹感に負けたのか、いつの間にかうとうとと微睡んでいた。ここまでの油断を見せる彼は珍しかったが、傍にそれを見る者はいない。

眠たそうな背中を見つけて、ネムは足音なくその隣に寄って腰を降ろす。疲れでもしているのだろうか。一度起こして寝床に入るよう促そうかと手を伸ばしたが、やめた。
辺りを見回しても、ゴブリンたちがうるさい程度で、怪しい気配や存在は感じられない。
もう少しだけなら、このままゆっくりさせても良いだろうと、そう思った。もう少しだけ。自分が帰るまでなら。
最近では日に日に、森を出るまでの時間が遅くなっている。これは良くないと思いながら、離れがたく感じていた。
小さく息を吐きながら、ネムはジョナサンの代わりに、薪を火に向かって放り投げた。

傍らのネムにも気付かない程、徐々に眠りは深くなっていた。火かき棒の代わりに使っていた枝でその巨体を支えながら、こくりこくりとこうべを垂れるその姿は、ネムの目にはどう映るだろうか。
そんな事を知る由もなく、ジョナサンは短く「ふが」と声を漏らした。

「ふっ……」

あどけない寝姿に、うっかり笑い声が漏れた。安らいでいるとも見える様子に、何故か頬が温かくなる。
こんな風に穏やかな時間を、彼はどれほど失ってきただろう。
つい、白く丸っこい指をジョナサンの髪に伸ばして、触れる程度に撫でようとした。

触れようとする指先にも気付かないまま、ジョナサンは呑気に寝息を立てて。
焚火に照らされたその顔からは、普段刻み込まれたように浮かぶ険しさも消えていて、半開きの口から時折間抜けな声が漏れる。
ネムがつい笑むのも仕方ないほどの油断した様だ。

短く刈られた男らしい髪の感覚を、指先に馴染ませるように撫で続ける。こんな図体をいとけないこどものように思ってしまうのは、何故だろうか。
焚き火のはぜる小さな音が響く。
このまま本格的に寝入られても、誰もこの巨体を運べないだろう。名残惜しさを感じながら、ネムはふらりと指を離し、名を呼んで起こそうとした。

ネムがその名を呼ぼうと、息を吸ったと同時だった。

ぱきん。

薪が爆ぜたものと思えたその音は、眠っていた筈のジョナサンの手元から聞こえた。
穏やかな寝顔とは裏腹に、木の枝を握った手には徐々に力が込められているようだった。
突然の高い音に、ネムの体が跳ねた。それからジョナサンの手元を見やって、もしかしたら気付いていた彼に怒られでもするのではないかと思ったが、そうではないらしい。
割れた枝が手に刺さるかもしれない、と慌ててジョナサンの手から枝を引ったくろうとする。

「ジョン……」

「………め、ろ……」

いつの間にか強く食いしばった歯の間から、ネムに聞こえるか聞こえないか、僅かに声が漏れた。

「……もう……めて……れ」

苦鳴のような、痛みに満ちた呟き。抵抗する様に力が込められた枝はついにひび割れへし折れる。支えられていた巨体が前のめりに、大きく揺れた。

「っジョン!!」

揺れた巨体が火に飛び込みそうになるのを、ネムは思わず渾身の力で抱き寄せた。鍋を吊るために組み上げたハンガーの、端に肩がぶつかって一部布が焦げる香りが立ち上る。
それでも、寒さに備えてそれなりの厚着をしてきたために痛みは少なかった。腕の中のジョナサンの顔を覗き込んで、ネムは声を張って呼び掛ける。

「ジョンっ、大丈夫か!?」

崩れた勢いでようやく目覚めたのか、自分を呼ぶ声に反応しはっとした顔でネムを見る。

「……は……」

浅い呼吸を繰り返しながら周囲を見回して、改めてネムを見ると、ゆっくりと呼吸を整えて。

「……ネ、ム?」
「……うん」

ジョナサンの額に浮かぶ冷えた脂汗を、指で忌避なく拭ってやりながら、鼻先を寄せる。

「ごめんな、もう少ししたら起こそうと、思って……」
「いや………すまん……」

ネムの冷えた指先が心地良い。触れさせるままにして、ただその顔を見つめ続ける事が出来ず視線を落とした。
枝をへし折った掌に残った木屑を払うと、やはり傷ついたのか所々に血が滲んでいる。

「ああ、傷が……」

痛ましげにジョナサンの手を見下ろすと、ネムは抱き止めていた腕に、一度軽く力を入れた。小さなこどもをあやすような、柔らかな身体がジョナサンを包む。

「待ってろ、布を濡らしてくる。綺麗にしないと……」

その顔を見れないままネムの言葉に短く頷く。
折った枝を拾うと一瞥して、たき火に放り込んで。

「すまんな……ネム……」

溢した言葉は、やけに弱々しい。

「…………」

ネムは微かな笑みを眦に乗せると、ジョンの額に鼻の先をちょんとつけた。親密な、愛情を感じさせる仕草だ。

「良いんだ。大丈夫……待ってて」

ゆっくり離れれば、冷えた夜風が間に滑り込んだ。ゆらゆら闇に白い尻尾を揺らして、清潔な布を鞄の中から探り当てると、ネムはまた水辺に向かった。

鼻先で触れられた額を軽く撫で、どこか安心した様に深く溜息を吐いて。
水辺に駆けていったネムの後姿を何となしに目で追う。夜の闇の中でゆらゆら揺れる白い尻尾を眺めていると、気が紛れるように感じた。

冷えた流れに晒した草布は、この間ネムが自分で織ったものだ。絞って水気を切ると、さっさとジョナサンの側に戻って、当然のように男の手を取る。
手のひらに残る痕に比べれば本当に微かな傷であったが、ネムは、まるで重い病でも扱うかのように、丁寧に血を拭き取った。

「破片は……刺さってなさそうだな。変に痛むところはあるか?」
「いや……」

ちくちくと僅かに痛んだが、ネムを心配させまいとゆるりと首を横に振る。
かいがいしく動き回るネムの丸い指先を見つめる視線は何か迷うように揺れていたが、やがて様子を伺うようにその顔を見る。

満月のような、金銀の瞳と視線が重なる。やっと顔を上げたジョナサンに、ずっと柔らかくなった微笑を向けると、痛む手を握り込んだ。体温がじわりと伝わっていく。

「……無理は、しなくていいぞ」

「…………夢、を」

ネムの微笑に不安を解されるようで。ふと、言うつもりのなかった言葉を漏らした。
続けるか否か、ジョナサンは一瞬戸惑った様子を見せたが、やはり溢れだしてしまう。

「……眠りが浅いと、夢を見るんだ……昔の夢を……」
「……夢……」

ジョナサンの、迷うような表情を覗き見ながら、握る手に微か力を込める。体温を刷り込むような、ここにいることを言い聞かせるような、そんな強さだ。

「…………悲しい夢か?辛かったろう」
「……………妻と、息子の……」

散々躊躇うような間の後にそう短く呟くと、視線を焚き火に向けた。
ネムの反応を見るのが何故か怖くて、しかしその手の温もりは逃がさないように、やわりと握り返して。
ネムの、色違いの瞳が見張られたのは、一瞬のことだった。握り返された手を逃がすでもなく、ただ受け入れている。
後ろめたいものを隠してでもいるような様子のジョナサンに、また微笑みかける。

「……家族がいたんだな。ジョンの大事な人だったんだ、善い人だったろう」

「だが、もういない」

それだけ答えると、様子を伺うように一瞬だけネムの顔を見て、すぐに火の中へ視線を戻す。
へし折った枝が爆ぜ、音を立てた。

「……すまん」

優しげなネムの声に、気を遣わせてしまった、と幾度目かの謝罪を口にして。
ジョナサンの、申し訳なさそうな声を遮るように手を握り返す。

「良いんだ、ジョン」

労るように手の傷をなぞりながら、今度はネムが目を逸らした。ジョナサンが視線を合わせることのないように、指先まで視界を差し下ろして。
柔らかく笑う顔は、責めるでも、咎めるでもなかった。

「……いなくなったときの、夢を?」
「…………ああ」

そのネムの表情を確かめるでもなく、焚き火を眺めたままで。
空いた側の指先で、徐に瞼を伏せる。

「……焼き付いて、消えない。もう忘れることなど出来ないんだろう」

呟きながら、その光景の焼き付いた両の目を抉らんとするようにも見えた。

「……ジョン……」

顔は見ないまでも、絞り出すような、苦し気な呼吸は耳で感じることが出来た。
気付けば腕はジョナサンの手を離れて、再度その広い肩を抱いていた。俯いて小さくなった身体を隠すように。

「……辛かったことを、忘れなくたっていい。それだけ、深く愛したということなんだから」

零れ落ちる言葉は、ジョナサンに聞かせるようでいて、もっと遠くに向いているようにも思えた。誰かの過去に響くような、古傷に染み入るような。

「……傷ついて、悲しんで、憤っただろう。愛していたから。でも、愛していたからこそ、負の感情だけで終わらない」

ネムの言葉を耳にして、黙ったまま一つ頷く。だが。

「……それでも、気が狂いそうになる。妻も子も、仲間も、仇すらもう何処にも居ない」

細い身体に包まれたまま、吐き出すような掠れた声で、言葉を紡いで。

「……それなのに俺は生きている。死にそびれて、みっともなく……」
「みっともなくなんかない!」

ジョナサンの身体を強く抱き締める。懺悔にも後悔にも似た言葉を腕に受け止めて、ネムは泣き出すような声を張り上げた。

「……みっともなく、なんか……お前が、お前が生きていて、だから……」

その先の言葉を、一瞬だけ躊躇った。言い淀んだ、束の間の沈黙。それを誤魔化すかのような、強い語気が続く。

「お前が生き延びてくれたおかげで、私が助かった。お前と、こうして共に過ごして、懐かしかった生活を思い出せた。私はこの思い出を持っていける……幸福を、もう一度私に持たせてくれたのは、お前なんだ、ジョン」

「……俺が……お前に……?」

自分が掛けられるべきではない、そんな言葉を耳にして。
ようやく顔を上げると、ネムを見つめた。

「……違う、俺はお前に何もしていない……求めるようになったのは俺の方だ。いつも施してくれるのはお前の方なんだ。今だってこうして甘ったれて……」

至近距離で、二対の視線が重なる。ネムの手が慈しむように、あやすようにジョナサンの頬を撫でていった。

「……お前に、この森のことを教えていくことで、いろんなことを思い出した。好物のきのこや、狩りの仕方、得意な料理も……母を失って、憎しみと悲しみのまま生きていた頃は、ずっと思い出せなくて……」

苦く微笑むと、ネムは顔を俯ける。真っ白な猫毛の先が、ジョナサンの額に触れる。

「ジョンが助けてくれて、私の勝手な我儘を許してくれて、ほんの少し、油断してくれるようになって……母を。……家族がいた頃を、思い出した……私にとっては、とても幸せだったよ、ジョン」

そうして、触れていた身体がふと離れようとする。今までの近すぎた距離を恥じらうような、伏せた顔に表情を隠して。

「……お前はきっと、これからも……そうやって、いろんな人を助けて、時に愛して、生きていける。大事だった人たちも、一緒に連れたまま……お前が忘れてしまったら、もうどこにも行けなくなってしまう、そんな人々も連れていけるんだ」

「……俺はもう嫌だった……結局全て失う。だから必要以上に、他人に関わらない様にしてきた……」

ネムの言葉に、心が解れていくような気がして。
滔々と言葉が溢れた。

「……それなのに、俺はまた求めるようになってしまった。思い出してしまった……」

自嘲に満ちた笑みが浮かぶ。食いしばった歯の奥からぽつぽつと、次々零れ続けて。

「……誰かの為に生きるという事を。……お前の所為だ、ネム」

「……それは……すまなかった、な」

眉尻と耳の先を垂れさせながら、慰めるように声をかける。
これは優しい男だ。ネムの世話を焼くことで、本来人を大事に思わずにいられない気性を呼び起こしてしまったのだと、思った。優しい、故に寂しがり屋の気性を思い出させてしまった、だけだと。そのために、その言葉がおそらく真に意図することに、ネムは触れられなかった。

「……でも、その方がずっと、らしいんじゃないか。ジョン」

申し訳なさげに垂れたネムの耳の間に、手当てしてもらった掌を差し込んで。
無遠慮だが優しく、ぐしぐしと頭を撫でた。

「…………もし、お前が本当に申し訳なく思うのなら……」

穏やかな声だった。まるで子供を諭すような、静かで強い声。

「……まずはお前が幸せになれ、ネム……俺はお前を何の憂いもなく、幸せにしてやりたい。お前はそうあるべきだ」
「にゃっ……」

ジョナサンの手が触れる瞬間、垂れていた耳が驚いて跳ねた。それでも前のように身を引いてしまうことはなかったし、身を強張らせたまま窺うようなこともなかった。
ジョナサンの掌の下で、穏やかな声に揺すられて、泣き出しそうにネムは笑う。

「……さっきも言っただろ。私は幸福だった……もう、十分なほど」

それから、受け入れていた男の手から滑り出ようとする。雲から透けて見える月は真上から傾いて、このままでは今夜中ずっとここにいてしまう。

「もう、憂いはない。ジョンもずっと元気になったし、礼も、嫌がらせも、済んだ……」

「駄目だ。ここに居てくれ」

ネムがまた何処ぞへ去ろうとするのを感じ、ジョナサンははっきりとそう告げた。
離れようとするその腕を、大きな手が掴む。
その掌は厚く、熱かった。

「頼む、ネム」

有無を言わせないような、強くしかし乞うような言葉。

今度こそ、ネムの身体が固まった。ジョナサンの予想通りに離れようとしたのが、その熱い手指の感覚に、言葉に、途端に自由を失った。喉の奥で言葉が張り付いてしまって、うまく話せない。
恐怖でもなく警戒でもなかった。ただ思いがけないジョナサンの言動に驚いていて、それが徐々に行方の知れない感情になって、目の回りが熱くなる。
行かなければいけないのに、ここにいてはいけないのに、この男の望みを叶えてやりたい。────此処にいたい。
そんな思いを振り切りたくて、なけなしの力で、小さく首を振る。

「わ、わたし……」

「……お前が心配だし、幸せにしてやりたい。それは本当だが」

尚も行こうとするネムを引き留めていた手が、僅かに緩む。無理に留めようとするつもりはないようだが──

「ああ……もう認めよう。本当は、俺が寂しいだけなんだ」

ジョナサンの言葉に、ひくりとネムの肩が震える。この男を癒してやりたい理由が、原因が突然提示された。それはネムにとって酷く都合の良い、甘やかな誘いだった。

「……わた、し……」

ジョナサンの手が緩んでも、ネムは動けなかった。動こうとしなかったのだ。ほたほたと大粒の涙が、色違いの瞳から、雨のように降ってくる。

「…………ずるい、ぞ。ジョン……」

「傍に居てくれ、ネム」

心からの言葉だった。
涙の粒を落としながら震えるネムに、改めて手を差し伸べる。

「この手を。お前の為になりたい。俺の為になってくれ」

穏やかな視線がネムを見つめた。

差し伸べられた男の手に、真っ白な、丸っこい指が重ねられる。
小さな両手で、ジョナサンの手にすがりながら、ネムはぺたりと膝を折った。泣きじゃくる声を必死に押し殺して、ほんの微かに頷く。頷いてしまった。
涙に濡れていく中で握り返した手は、いつか教会の墓地で抱き上げられたときと同じに、温かく優しい体温だ。

「……………わた、し。……そばに、いたい……!」

酷く苦しそうな呼吸で、ネムは確かに、そう絞り出した。

「……ああ。一緒だ」

泣きじゃくるネムを引き寄せると、周りから隠すように懐に抱いた。

「……ありがとう、ネム」

ネムを膝に乗せたまま、焚き火のほうを向いて。暖かい光に照らされながらネムが落ち着くのを待った。

抱き寄せられる瞬間、ひっ、と息を呑むネムの声が微かに上がった。ジョナサンの熱と匂いが近くて、それらに包み込まれるようで、安らぐけれども落ち着かない。心臓が狂ったように跳ねている。
出会ったときと同じ、草で編まれた布の香りと、木くずの匂い。それから、ジョナサン自身の、肌の匂い。
涙はそのとき引っ込んだが、急に熱の昇った顔を隠すために、そのままおとなしく懐にうずくまっている。

「…………じょ、ん……」
「大丈夫か?落ち着くまで座ってろ」

ネムの様子に気が付かないまま、自分はすっかり安堵した様子で。
聞き慣れない歌を口ずさみながら、焚き火に薪を放り込む。

「う…………」

こんな体勢では落ち着けない、とはついぞ口に出せなかった。
顔を隠そうと身をよじって、結果的にジョナサンの胸に鼻先を埋めるようになりながら、ネムは耳に心地よく歌を聞いている。旋律に合わせて、真っ白な尻尾がぴたぴたと、ジョナサンの膝を叩いた。

「…………朝、には」

照れ臭そうに、もぞもぞと呟く。

「……パンと、卵を。焼こう、か」
「ああ……いいな。楽しみだ」

落ち着かなさげに動くネムの身をポンポンと撫でながら、幾度か頷く。

「……ただ、俺達の分だけとはいかないだろうな。ゴブリン達にも準備を手伝ってもらうと良い」
「うん……」

互いの心音が、重なったり、交互に鳴ったりを繰り返している。体躯も違えば、その身に刻む脈動も違って、それがひどく心地が良い。
いつの間にかゴブリンたちは宴の末に寝静まっていて、青白い月は地平めがけて大分傾いていた。久しぶりにこの地で夜を明かすことが、ネムには嬉しく、反面恐ろしいことのように思えた。
傍らの熱と寄り添っていれば、そのうち、許し、許されるだろうか。未だ不安の多い眼差しを、腕の中からそっとジョナサンの顔に向ける。

しばらくそうしていると、お互いの体温が馴染んでいくのが分かる。
それを心地よく感じていると、不安げにこちらを見上げるネムの視線に気付いた。

「……そんな顔をしないでくれ。悪いようにはしない」

ぱちりと、大きな色違いの目を瞬くと、おかしそうにネムは笑った。零れるような、娘らしい笑みだ。

「お前に、悪いことをされるなんて思ってないぞ。……お前のすることが、恐ろしいもんか」

笑う呼気を残したまま、ジョナサンの胸に頬を寄せる。

「そういう事じゃ……ま、いいか」

懐くネムの重みを心地よく受け止めながら。
星空を見上げると、自然と大あくびが出た。

訝しげにジョナサンの顔を見ようとすれば、大あくびが目に入った。小さく噴き出すと、ジョナサンの懐から抜け出そうと、身じろぎして。

「私はもう、大丈夫だから……もう寝ろ、ジョン。火の番は私がするから」
「……ゴブリン達も静かになってる。もう火の番は大丈夫だろう」

ネムの言葉にふと、自分のテントに目をやる。

「この間言った毛布、取ってあるからな。お前ももう休むと良い」

言いながら、当たり前のようにテントへ行くようネムにも促して。

「取っ……てある、って」

すっとんきょうな声を上げると、すっかりジョナサンの膝の上で寛いでいた尻尾がぴょんと跳ねた。

「だ、だめだ、ジョンのなんだから。私は、えっ、わ、私も、あの……中、で?」
「悪いようにはしないと言ったろう……心配か?」

言いながら、わざとらしく口角を上げて。
ネムを立たせると自分もそれに続く。

「抱き上げてでも行くぞ」
「恐くないったら!!」

憤慨したように大声を出しかけて、せっかく寝静まっているゴブリンたちを起こすまいと両手で口を覆った。それからネムは、恨めしげな目で、ジョナサンを睨む。

「じ、自分で行く……でもっ、毛布はジョンのだからな」
「頑固なやつだな……だが」

テントへ入るや否や、ネムを清潔な毛布で包んでしまうと、自分も寝床へ横になった。

「狭いが、外よりはマシだろう?適当に横になってくれ」
「ジョンっ!」

されるがままに、さっさと毛布にくるまれてしまい、ネムは悔しげに声を上げた。無防備に横たわってしまったジョナサンの背に、しばらく恨めしげな唸り声をぶつけていたが、止むと同時に、軽い衝撃と熱が触れた。いそいそとジョナサンに毛布を分けながら、ネムが背中に張り付いたのだった。

「……まったく」

そう呟きながらも、その声には笑みが含まれていて。
眠る前に感じる、自分以外の者の体温にやはり安堵しながら、ジョナサンはじわじわと微睡んでいく。

「……もし、また……夢を、見たら。振り向いても、良いからな」

寝入りそうなジョナサンの背に、直接肌に含ませるようにネムは囁く。よくなついた猫のように隣で丸まって、ひとつ眠たげな息を吐いた。

「……ああ。そうしよう」

いずれまた、夢を見るだろう。
しかし、この背中に感じる体温のなんと心強い事か。

「………ネム、お前が……そこに居てくれれば………」

───自分は大丈夫。
そこまで告げる前に、ジョナサンは静かに眠りに落ちた。

その途中までジョナサンが呟いた言葉に、ネムの色違いの瞳から、一粒ずつ涙が零れた。腹いせのようにその背中で拭いてやる。起こさないよう静かに、腕をジョナサンの身体に回して、ネムはより体を寄せた。

「……おやすみ、ジョン……」

広く逞しい背は確かに脈打っていて、息をしていて、熱を持っていた。これまで越えてきたひとり凍える夜を、遠い思い出にするような。
やがてテントの中では、二人ぶんの寝息が、柔らかく溶け合っていた。

  • 最終更新:2018-05-22 13:35:09

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