木こりと白猫9
朝露で風の濡れた黒衣森は、爽やかなエーテルに満ちていた。小鳥が時を告げる声が聞こえる。
ウォータースプライトが心地よさげに揺蕩う、水辺の縁で、起き出したネムは身支度を整えていた。水面を鏡代わりに、整えた髪に櫛を通し、ふわふわと毛の長い尻尾も丁寧にくしけずって、冷たい水で顔を洗う。
その横では、石を積んで簡単に拵えた石窯ができていて、中ではクルミをいれたパンを焼いているところだ。ゴブリンたちに作り方を教えてやったところ、たいそう喜んで、野営地のあちこちに同様の釜を作った。朝飯時の今は、料理係のゴブリンたちが、せっせとパンを焼いている。
賑やかになっていく野営地を見渡して、ネムは柔らかく微笑んだ。
「……よしっ」
ひょいと立ち上がると、一度パンの具合を覗いてから、とあるテントに向かう。古びた布を捲れば、横たわる巨体が目に入った。
「……ジョン?起きてるか?」
「……おきてる……起きてるぞ」
朗らかなネムの声とは逆に、ジョナサンが寝ぼけ半分の活気のない声で答える。
意識が半ば朦朧としたままで、のそり、と身を起こした。
傍に準備してあった衣服にもぞもそと袖を通すと、ネムの使っている香油の匂いがする。
「今日も早いな……ネム」
ジョナサンの眠たそうな声音に、真っ白な尾がふわりと揺れた。天井の低いテントの中、側までやってくると、行儀よく膝を揃える。
「お前と違って、いろいろと支度があるんだ。……よく眠れたか?」
瞼が半分以上閉じたままのジョナサンの頬を、まるっこい指先がそっと撫でる。
ネムと共に入り込んだ朝陽の眩しさに、更に目を細めて。
頬に触れる感触に安心したように一息吐く。
「……よく眠れてる、最近は」
お前のおかげ、と続けようとした所で、外から漂う香しい香りに気付く。すん、と鼻が鳴った。
「……良い匂いがするな」
「うん、くるみのパンを焼いてるんだ。お前が起きたら、卵も焼こうと思ってた……オムレツと、目玉焼きと、スクランブルエッグと……どれがいい?」
ジョナサンの安らいだ様子に、ネムは嬉しそうに顔を綻ばせる。この男が辛い思いをしないのが、一番良い。
ふわふわと尻尾をくねらせながら、卵の焼き方を言い連ねるに合わせて指を折って、ジョナサンを見上げる。
ネムが並べた卵料理に、思わずごくりと喉が鳴る。
一瞬考えて。
「今日は……目玉焼きがいい、な。頼む」
言った所で腹が鳴った。ネムにも聞こえてしまったかと、真顔でそちらを伺って。
「ふふっ」
耳の良いミコッテ族には、もちろん腹の虫の声が届いていた。可笑しそうにくすくす笑うと、柔らかい金銀の眼差しで、まるで愛しそうにジョナサンを見る。
「任せろ。焼いている間、顔を洗ってくるといいぞ」
そう言って、畳んでテントの隅に積んである草布から一枚取り上げて、ジョナサンの手の上に置く。
腰を上げて踵を返せば、真っ白な尾がジョナサンの目の前で嬉しそうに揺れた。
気付いたと言わんばかりのネムの笑みに照れくさそうに頭を掻きつつ。それを誤魔化す様に、行こうとする彼女の背に一言かける。
「……き、黄身は、半熟で……」
ジョナサンの声に、振り向いた満月の瞳が笑った。
我ながら間抜けな誤魔化しだとジョナサンは一人首を傾げつつ、ネムに続いてテントを出た。
野営地の朝の賑わいに、改めて頭が冴えていく。
周囲の雰囲気を味わう様に辺りを見回しつつ、水場に向かう。手拭いを水に浸すと、爽やかな冷たさが心地よい。
同じ様に寄ってきたゴブリン達と挨拶を交わしつつ顔を拭くと、やはりネムの香油の香りがする。
パンを焼いている石窯の上部は、火のお陰で熱くなっていて、スキレットを置けばすぐに熱が入る。卵を落とす前にベーコンを敷いたのは、ネムのジョナサンに対する贔屓だ。卵の白身の端からゆっくり焼けていって、ぷちぷちと脂が弾ける音がする。
目玉焼きを作る間に、厚手の革手袋をつけたネムがゆっくり石窯から板を引けば、きつね色に膨れたクルミパンがあらわれた。その様子を覗きに来た娘ゴブリンたちが、わあわあと歓声を上げる。
賑やかな野営地のあちこちから、あさげの匂いがする。
聞こえてきた歓声にジョナサンがそちらを振り返ると、ゴブリン達に囲まれ楽しげなネムの姿が目に入り、思わず微笑んだ。
ふと視線を感じてネムが顔を上げると、ジョナサンと目があった。自然と、応えるように微笑んで、早くおいでと手招きする。
ジョナサンが切り出した木材から、ネムが削り出した皿やボウルに、クルミパンや目玉焼きベーコンを乗せる。職人ではないため粗削りな食器であるものの、質素に生活していく上では十分な形と丈夫さだ。食卓には牛乳やオレンジジュースが用意してあって、ゴブリンたちも好きな方を、自分のボウルに注いでいく。
「さあ、ジョン。ちゃんと半熟にしたぞ」
手招きに誘われ歩み寄ると、出来たての朝食が目に入る。その香りまで味わう様に、大きく深呼吸して。
「ああ……たまらんな。腹が減った」
言いながら食器を受け取ると、いつもの火の側へ腰を降ろす。
お前も一緒に、とネムにも目配せして。
「腹が減ったか?そうか……ふふふ」
ジョナサンの様子に、ネムはやはり嬉しそうに笑って。その隣に、当然のように寄り添うと、飲み物を入れるボウルを手繰り寄せる。
「牛乳か?それとも、オレンジジュース?」
「じゃあ、オレンジジュースを」
ジュースを掬う様子を見つめて、思わず嘆息する。
「贅沢だな……オレンジをこんな……」
乾いた喉が静かに上下した。
ラノシア地方で採れるオレンジを搾っただけだが、こんなにも感動されると面映ゆい。ネムはほのかに赤く染めた頬で笑みながら、ジョナサンにオレンジジュースを並々と注いだボウルを渡した。
「ジョンには少し酸っぱいかもしれないな。ふふ、そのときは少しはちみつを入れてやるぞ」
ネム自身は牛乳をもらった。改めてしゃんと背筋を伸ばし。
「さあ、食べようジョン。いただきます」
ジョナサンにそう促すが、ネムは少しの間、両の手を組んで祈りを捧げる。食事の前には必ずするのだと、母から教わった。
食べようとしたところでネムの所作に気付き、ボウルとトレイをいったん置いた。
「……いただきます」
小さく呟き、ネムを見つめる。祈りの真似までする様な事は無かったが、彼女のそれが済むまで待つつもりのようだった。
祈りを終えて、真っ白な睫毛が上向いた。ジョナサンの視線に気付いたようで、ぎょっとネムの耳と尻尾が跳ねる。
「まっ、待たなくても良いんだったら。冷めるだろ、ほらっ」
食べろ食べろと促しながら、自分はジョナサンが食べ始めるまで口をつけないらしい。きちんと膝を揃えたままだ。
「ああ。食べよう」
ネムの様子に一つ頷くと、待ちかねたと言わんばかりに早速クルミパンにかぶりついた。
柔らかく香しい生地に、クルミの食感が楽しい。
口いっぱいに頬張り味わうのを見せつけるようにしながら、横目でネムの様子を見る。
豪快に食いついたジョナサンの様子に、ネムはただえさえ大きな目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。はにかんだまま、自分も倣ってクルミパンをかじる。もちもちとした生地と、焼けたクルミの硬さがちょうど良い。ジョナサンよりもずっと小さい口なので、食べるペースもずっとゆっくりだ。
「……うん……なかなか上手く焼けてる。うまいか?」
パンを飲み込むと、ネムはジョナサンを見ながら、自身はキノコ入りオムレツにした卵にフォークを入れる。
「うまい、ぞ……お前、ベーコン?ベーコンエッグだと……」
目玉焼きの方に手を付けようとして、ベーコンに感嘆の声を上げた。
良く焼けたベーコンに噛みつき、潰れた黄身をパンで器用に掬い取って口に運ぶ。夢中で食べ進める中、ちらちらとネムの様子を伺いつつ。
あまりの食い付きに、思わずネムは笑ってしまう。相変わらず、この大きな体の男は可愛らしい。向けられる視線を追って、ネムの目も自分の手元に落ちる。ああ、と声を上げると、自然に────何の意図も恥じらいもなく、フォークにのせたオムレツをジョナサンの口許に運んだ。
「ほら、こっちも食べるか?」
「すまんな」
躊躇いなくネムの差し出したオムレツを口にした。
もぐもぐと目玉焼きとはまた別の柔らかな味わいを楽しんでいたが、ふとネムの行為を思い返し動きが鈍る。
「………うまい。オムレツも、美味い、が」
「ふふ。じゃあ、明日はオムレツにしようか?キノコを入れるでもいいし……ジャガイモがまだあるから、それを入れても……」
楽しそうに明日の朝の献立を考えるネムは、ジョナサンの様子に気付かないまま、彼の口に運んだフォークそのままでオムレツを食す。自分が今どんな行動をとったかは、よく考えていないらしい。
「……リーキという手も……、……ジョン?どうした?殻でも入ってたか?」
「……いや。何でもない」
ネムの無反応に、意識した自分が恥ずかしくなる。
誤魔化す様に僅かに笑うと、目玉焼きとベーコンの残りをパンに載せ、一気に平らげようとして。
「?」
無邪気な顔でジョナサンを見上げるネムの目は、すっかり幸せそうに和んでいる。
ジョナサンの浪漫溢れる食べ方に、また嬉しそうに笑うと、自分はオムレツやパンを食べる手を止めてそれを眺める。
「大きな口だな」
言われた通り大きな口で、残りを一口、二口。みるみるうちに平らげると、オレンジジュースをちびちびと口にして。
人心地ついたのかそこでようやく、ほう、と一息ついた。
「……ふふ、食った」
「うん。偉いぞ」
牛乳でクルミパンをふやかしながら、ネムも続きを食べ進めるが、もう少しはかかりそうだ。小さな口をせわしなく動かす様子は、猫というより小動物に近しいかもしれない。
「……ジョンは何でもよく食べてくれるな……きらいなものはないのか?」
パンに、オムレツからこぼれた汁を吸わせながら、ネムはジョナサンを見上げる。
「嫌いなもの……そうだな……」
口元を拭いながら、ネムの食べる様子を眺めた。何となく子猫などを思い浮かべながら。
「……海のものは、あまり食べる機会がなかったから……あまり慣れなかったな。貝とか……」
海は好きなんだが、と呟きつつ頬を掻いて。
こくん、と小さな嚥下音。真っ白な睫毛を、ぱちぱちと上下させると、ネムはゆっくり首を傾げた。
「貝?……タニシとか……しじみとかか?」
森で育ち、砂漠で戦ってきたネムにも、海の幸は遠いものらしい。見たことのある貝といえば、川や湖の淡水で生息するものだけだ。
「あれは……食べられるものなのか……?虫がいるから、食べてはいけないんだって母さんに教わったぞ?」
「もっとこう……デカくて、ごろごろした奴だ。それを殻ごと焼いたりしてな」
言いながら、ぐっと拳骨を作る。これくらいの、と貝の大きさを表しているつもりのようだ。
「リムサ・ロミンサの辺りを回っていた頃に、何度か食べる機会があったが……何と言うか、海が凝縮されたような味だった」
「そんなに!?」
思わずネムは手を伸ばして、ジョナサンの拳に触れる。ぺたぺたと大きさを確かめてみて、それから自分の体の前で、虚空に大きさを再現してみせる。
「リムサ・ロミンサ……海の味……そうか……」
満月のような瞳を輝かせて、ネムは笑う。
「あちらは、ずっと遠いからな……海のものは値が張るし、あんまり市場でも見ないんだ。いいな……ジョンは、あっちに行ったことがあるんだな」
「ああ、随分前の事だが……」
そこまで言うと少し考えるように目を伏せて、再びネムを見た。
瞳を輝かせて笑う姿が、眩しく見える。
「……行くか、一緒に」
「えっ……」
耳と尻尾が跳ねた。驚いたようにジョナサンを見上げるネムの瞳が、しばらくしてうろうろと慌て始める。
「ちがっ……ねだったわけじゃあないぞ!そんな……」
何事か言い訳でもしようとした口が、しおしおと尖って、おとなしく残りのパンをかじる。
「……そ、そんな贅沢なこと……私、こうして一緒にいられるだけでも、恐ろしささえ感じるのに」
「………い、いや。そんなに畏まるな」
ネムが気づかぬうちに漏らしたであろう言葉に内心焦りつつ、自身と彼女を落ち着かせる様に、静かに続ける。
「……お前が嫌じゃなければ、だが……長旅になるだろうし。それでも良ければ、いずれ」
「いやなんかじゃない!」
跳ね上がるように、ネムは大声を上げる。何事か何事かと視線を向けるゴブリンたちに、何でもないと慌てて首を振って、ジョナサンの隣で背中を丸める。
「嫌なんかじゃ、決して……で、でも、森を出て、今度は、何にも怯えずに、色んなものが見られて……」
大丈夫だ、とゴブリン達に手を振りながら、ジョナサンはネムの呟きを聞いている。
ジョナサンと過ごすようになってから、ネムは武器を常備しない。しかしテントの中には未だに、鉄製の剣がおかれている。
「……私が初めて出会う景色に、ジョンがいて……そんな幸せを、私が感じて良いのか、まだ……」
「……むしろ、お前のその幸せであろう瞬間に、俺が横に居て良いのかって話だが……」
妙に恐縮して小さくなっているネムの頭を、慣れたようにぐしぐしと撫でて。
「う……」
ジョナサンの大きな手を、ネムはすっかり受け入れる。耳が気持ち良さそうに平らに寝て、真っ白な睫毛の合間から、はにかんだ顔をジョナサンに向ける。
「そ、それは。だって……」
落ち着かなさげな尻尾が、そっとジョナサンのそばに添えられる。
「……わ、私のために、なってくれる、ん、だろ、う?」
「ああ。勿論だ」
こくりと頷くと、誤魔化しではなく心から笑って見せた。
ネムの隠しているつもりであろう心の内が伝わってくるようで、それがとてもいとおしく。
「わかった……行こう。何処にでも、一緒にな」
ぐちぐちと断れない様に、行こう、とはっきり伝えた。それがネムの為と思って。
「うっ……」
ジョナサンが見せた笑顔に、不意にネムの頬が熱くなる。しかしその恥ずかしげな表情を隠そうとはせずに、仄かに明るい金銀の目で、見上げて。
「……う、ん……」
こっくりと頷いた。ジョナサンの真意をすべて汲んだわけではないが、またこの男に、自分が断らないで済む言い方をさせてしまった気がした。
それではあまりに公平さに欠けるようで、だからこそ。
「…………ジョンと一緒が、しあわせ、だぞ……」
それだけは、伝えなければいけない、気もした。
その言葉に一瞬、時が止まったように感じた。
今の自分には分不相応な言葉を聞いた気がして。過去の何がしかを思い出して。
鼻の奥がツン、とする。
「……そう、か……」
短く答え、困ったような表情でネムを見ると、恥ずかしげにこちらに向けられた視線があった。
ジョナサンと目が合うと微笑む癖でもついたのか、ネムははにかんだまま、不馴れに笑んだ。娘らしい面持ちの、柔らかい笑み。
「……そ、そうとなったら、少しずつ……旅支度を、整えないとな。貯金頑張るから、なっ」
頬を薄紅色に染めながら、嬉しそうにはしゃいでいる。無意識にかジョナサンの側で、ぴたぴたと尻尾の先が揺れていて、喉の鳴る幸福な音まで聞こえる。
「うん……なら、俺も稼ぎに行かないとな」
ネムの様子を見ていてついに気恥ずかしくなったのか、立ち上がって仕事の準備を始めようとする。食器を片付けようとして、慌ててとり落としてしまう。
見る人間が見れば、その慌て様は一目瞭然なのだろうが……。
「あっ、あっ、良いぞ、片付けるから……!」
しかしネムは、他人のそういった機微にはとんと無頓着なのだった。ジョナサンの手が痛んだのではないかとか、そういう心配ばかりをしている。
「きょ、今日はどこまで行くんだ?」
「そうだな……バスカロンの店の辺りか……ロウアーパスの方まで行ってみようか、と」
仕事道具一式の準備をし、最後に手斧を担ぐ。よし、とネムに向き直って。
「もしかしたら、帰りは少し遅くなるかもしれん。歩きだとどうしてもな……」
「ロウアーパス……。……そうか、よし」
ひとりごちながら、ネムが用意したのは二人ぶんの弁当だ。今朝焼いたクルミパンの間に、新鮮な森の野菜と、ヴァルチャーの笹身を挟んだサンドイッチだ。実はフルーツを挟んだものもあるのだが、仕事の合間に開けるだろうジョナサンには内緒だ。
「私も一緒にいってもいいか?あの辺りではカーラントも採れるし、亜麻も摘める……ふふ、テントの補修に使いたいんだ」
「……まあ、それなら遅くなっても構わないか。一緒に行こう」
ネムの準備を待ちながら、雰囲気を察してからかいに来るゴブリン達を追い払いつつ。
現れたネムが持つ仕事道具と弁当であろう荷物を引き受けて。
「さあ行くぞ。忘れ物はないな」
「あっ……」
すっかり荷物を持ってもらうことが当たり前になっていて、ジョナサンの手際にはいつも驚かされる。それくらいは持てるのに、と頬を膨らませながらも、ネムは小さく礼を述べた。
「うん、行こう。……ふふ、暗くなっても大丈夫だぞ。私はムーンキーパーだから」
満月のような、色違いの瞳を交互に指差してみせて。
「宵闇のなかだって道がよく見える。絶対帰らせてやるぞ」
「ああ、頼りにしてるぞ……いつもな」
穏やかに言いながら軽々と荷物を担ぎ上げて。ネムの歩みに合わせるように、ジョナサンは横に並んだ。
見慣れた森の中を、凸凹の人影が進んでいく。
「うんっ。……私も、頼りにしてる。ジョン」
ジョナサンの大きな体になつくように、ネムが寄り添う。安心しきった様子で、ジョナサンの筋張った頬や、たくましい顎や、そんな横顔を眺めながら。
木々の枝葉から漏れる朝日の中、二人は同じはやさで、森の道を歩いていった。
- 最終更新:2018-06-19 14:22:18