20180606

太陽が空の天辺を通り過ぎてから、暫く経った時刻の黒衣の森。青々と茂った木々の隙間から光が漏れ、風が吹く度に地面の日溜りを揺らしていた。春を過ぎて雨季を目前にした森の気候は、人にとっても、獣にとっても、あるいは魔物や蛮族達にとっても過ごし易い頃だった。植物が芽生え盛んに萌えるのと同じように、森に暮らす生き物もまた、力をつける。人や獣に限らず、魔物と言えども、森に暮らすものの多くは、森の法則に従って生きていた。
だからこそ、この頃に道を違える事は避けねばならなかった。ただでさえ戦う術を持たないのだから、用心して歩かないといけない。例え通い慣れた野の道であっても。森に暮らす者が、連綿と言い聞かせてきた身を守る為の知恵だ。
そう、分っていた筈なのに、まんまと普段とは違う帰路に入ってしまったミコッテの娘は、進むも引き返すもいまいち決断が鈍り、大きな木の影に身を潜めるようにして立ち往生していた。

そんな彼女の耳に、甲虫の間接が駆動する特有の音が聞こえた。本来であれば微かな音で、姿の見えないうちからこんなにも響くことはない。およそ魔物の群れが、一斉に動いているのだろう。

「…──!」

バスケットを抱えたまま、とりあえず一度グリダニアまで戻るべきかと腰を上げかけたところである。虫の群れの足音を、ミコッテ族の耳が拾い上げた。ぴんと音の方に向かって立った耳は、それがどちらの方向からしているものか探ろうとしている。彼等は足音を消して動くもの。こんなにも聞こえてくるというなら、その数はいかほどで、何が起こっているのだろうが。
人が襲われているのでは無ければいいと、そう祈りながら自然と足は魔物の群れの方に向かって走り出した。

道を北上すれば、「地神の忘却」と呼ばれる、巨大樹の根が断崖を渡るための橋となっている場所がある。そのすぐ近く、鬱蒼と生い茂る木々の向こう。
ダイアマイトという、蠍や蜘蛛の姿に似た巨大な節足動物が、眺めただけでも十数匹、狂ったように尾針を掲げて攻撃の意を表していた。おおよそこの辺りが彼らの縄張りなのだろう。そこに踏みいった者がいたのだ。
一切森と融け合わない、目映く甘い果実の色。匂い立つほどの美しさで、堂々と蟲たちの中心に座す、ミコッテの女がいた。つまらなそうに、鈍く光る甲殻の波の上を、視線で撫でている。

群れの足音に移動する気配は無く、どこか一か所に群がっているようだった。動かれる前に辿り着かなければと息を切らして走った先、とうとうダイアマイトの群れと、その中心に立つ女性を見つけた。熟れた果実のように甘やかな色彩と、それに反して、魔物の威嚇を物ともしない強気な瞳に、一瞬目を奪われる。
しかし、どう考えても状況は切迫している。我に返るや、バスケットに詰め込んでいた林檎を手に取ってダイアマイトの一匹に投げつけた。後先は、あまり考えていない。本人的に全力投球だったものの、勢いが足らなかった林檎は、振り上げた毒針にコツンと呑気な音をさせて当たった程度だった。――しかしそれでも、邪魔が入ったことを知らせるには、十分だった。

「あ、貴女…っ!今のうちに逃げて…っ」

突然の乱入者に、それまで蟲たちを睨め付けていた女の瞳が、微か驚きに見張られた。
ダイアマイトの顎が、カシャカシャとおぞましい音を立てる。それまで牽制で均衡をとっていた相手よりも、明らかに攻撃を加えてきた者に敵意が向くのは当然だった。呼気とも声とも付かない怒気を吐き出して、数多の針の先が毒々しく光る。

「……ばかね」

呆れたように、女は呟いた。それからその手に掲げたのは呪具である。魔法を心得る者であり、戦闘能力を有する者であるという証明。一匹、二匹とダイアマイトを踏みつけて、身軽な動作で、勇敢な娘の側に降り立つ。

「ちょっと熱いわよ。伏せていらっしゃい」

言葉は発せずとも、固い威嚇音やこちらを向く毒針や無数の目に、その怒気は痛いほどに知れるのだった。気圧されるようにして、震えた脚が一歩、二歩と下がる。それでも、バスケットの中を探って、なにか投げられるものを探そうとしていた。この隙に彼女を逃がすことが何よりの目的だったが。

「……!」

小さな嘆息と共に取り出された杖に、思わず目を瞠る。よく分から無いけれど、咄嗟にバスケットを抱え、両手を祈りの形に握り合わせながら地面にしゃがみこんだ。

「ノフィカ様…っ、おばあ様…っ!彼女を守って…っ」

娘の祈りの声に、女は僅かに口角を上げた。

「────」

破壊を命ずる詠唱が轟く。呪術とは、大いなる破滅を導く魔法だ。圧倒的で暴力的な威力を誇る魔法。それが炎となって起こった。熱波は渦となり、触れるものすべて焼き焦がす。ダイアマイトの甲殻は次々赤く燃えて、尾針は黒く炭となり、近くに転がっていた林檎は水分を失って土くれになった。
風に揺られた葉が擦れあう音が聞こえるようになった頃、蟲の姿はすっかりなくなって、燃えかすが儚くはぜるのみ。

「変なことを言うから、手元が狂ったじゃない」

女は、手元で呪具を玩びながら、娘を見下ろした。

激しい炎が巻き上がり、何かが燃えて爆ぜる音が、伏せられたミコッテの耳を打っていた。焼けただれた風が、虫の焦げる臭いと共に頬の横を駆け抜けていく。そのあまりの勢いと熱量に、息を吸い込むと咽喉が涸れるようだった。
やがて炎の気配が遠ざかり、彼女の声に肩を叩かれて、おそるおそる顔を上げた。

「…え……。あ、あら………?」

特別手を貸して立たせようともしなければ、その場をすぐに去る気配もなく、呆然とした様子のミコッテの娘を見ている。武器として振るわれた林檎だったものの炭を爪先でにじって、女は炎の香りが残る風につんと鼻先を向けた。

「実在しないものも、死人も、守ってくれはしないのよ」

きょろきょろと辺りを見回して、何もかもが終わって危ないことも綺麗に焼き払われていることを知れば、両手を地面について立ち上がる。足元は、まだ少しふらついている。
それから、彼女の様子を見て目視できる限り怪我が無いことを確認して、息をつくけれど。

「………。」

なにか言いかけるが、言葉を飲み込んで、やんわりと微笑んだ。
少し傷ついたような微笑だ。

「…そうね、今私を助けてくれたのは、紛れも無く貴女だわ。ありがとう。…本当は、私が助けるつもりだったのだけど。」

そう言って、おどけたように肩を竦めて見せる。

「そう。馬鹿なひと」

ミコッテの娘の心情などよそに──否、悟って尚傷を深くしようとでもしているのか、女は冷たく言い放った。睫毛の先が、微かに下向く。

「勇気と無謀は別物よ。……元々焼いてしまうつもりの蟲だったし、お礼を言われるほどでもないわ」

「ふふ、良く言われるわ」

微笑みを絶やさないままに、彼女のことをつぶさに見つめる。それから、そっと歩み寄って、少しばかり俯く顔を覗きこもうとした。無理強いをすることの無いように、傷つけることのないように、繊細な子どもの表情を窺う様な風情で。

「そうね、私が言いたかっただけなの。無理に受け取ってくださらなくてもいいわ。…それより、怪我は無い?あの針にはひどい毒があるの、掠めてたりとかはしていない?」

まるで慈しむように覗き込まれる、その仕草に、ふと遠い日のことを思い返す。魔物ごと辺りを焼き払って、その時に、こんな風に声をかけられたような。
懐かしさを感じた自分を戒めるように、女は小さく首を振る。

「そんなヘマはしないわ。あんたは……」

鼻を鳴らすように、小さく笑う。

「立てているなら、上等ね。バスケットの中身がなくならない内に帰ったらどうかしら」

「そう、良かった…」

ほっと息をついて、安堵したように笑みを深くする。

「……バスケットには、まだたくさん良い物が入ってるから平気よ。貴女もひとつ持って行ってちょうだい。」

呪具を持っていない方の手を取って、そこにバスケットから取り出したラノシアオレンジを乗せようとする。柔らかい仕草だが、先程に比べたら有無を言わせない素早さがあっただろう。

思いがけない娘の機敏さに、女はされるがまま、オレンジを受け取ってしまう。放り投げて別の魔物を刺激してやっても良かったが、何となしにそれは出来ず、鼻先を近付ける。

「……良い香り」

ラノシア地方で採れる果実は、燦々と輝く太陽と、響く潮騒を彷彿とさせる。

「この辺りでも採れるものなの?」

「いいえ。リムサ・ロミンサ…海の都で採れるものだそうよ。グリダニアのマーケットにたまたま出ていたの。……良かったら、もらってちょうだい。私には、食べられないから。」

娘が見せた素早さは、例えるなら母親が子どもの支度や世話をする時のてきぱきとした動きだ。彼女が果実を放り出さす興味を示してくれたのを見届けると、バスケットに薄手の綿布を被せ直す。白く清潔な布は、四隅を小さな花模様の刺繍で彩られていた。

「あら。嫌いなものをお礼と称して押し付けるつもり?」

女は片方の眉を吊り上げてみせる。食べられないものをわざわざ買ったのか、それとも市場で押し付けられたのか。何れとも分からないが、奇妙な物言いだと思ったのだ。
疑問を形取りながら、答えはなくても良いらしい。器用にオレンジを手のひらで遊ばせながら、ふらりと歩が進み始める。その先は、森の都、グリダニアのようだった。

「…嫌いでは無いの。…ただ、なんと言えばいいのかしら、うーん……、そうね…。”私にはまだ早い”というものかしら。」

微笑んで、少しばかり困ったように小首を傾げる。冗談のような表現だけれど、嘘をついていたり誤魔化そうとする素振りは無い。本当に、そうとしか言いようがない、という本人も困ったような様子で。
そして、歩み出す背中を立ち止まったまま見送った。親しいものにするように、手を振りながら。

「………お元気で、ノフィカ様のご加護を祈ってるわ。…あっ、それから、危ないことをしてはだめよ…っ。怪我には気を付けてね…っ。」

やがて彼女が立ち去った後、足元に残った一握の灰を、腰を屈めて少し撫ぜた。かつて虫の形をした生き物であったそれに、別れを告げるように一時触れて、やがて自らも森の奥へと帰っていく。

こんな変哲もないオレンジなど、大人の嗜みでもあるまいに。そんな言葉を、女は飲み込んだ。尻尾を煙のようにくねらせて、言葉もなく離れていく。
自分とはまったく対照の、柔らかな青の娘だった。あの透き通るような瞳に、優しい誰かの面影を見たような。すっと気持ちが凪ぐような、それでいて、水面下は荒れ狂うような気分だ。釘を刺されたばかりであるが、もうひと運動してから宿に向かっても良いかもしれない。そう思いながらも、ただ土を踏みしめていたのは、瑞々しいオレンジの香りのせいだろう。

  • 最終更新:2018-06-09 18:36:28

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