20180707

黒衣森の一画、ゴブリンたちが野営をしている場所には、今日も腹の虫を刺激する香りが漂っていた。急拵えの石窯の橫で、ネムはパンが焼けるのを待ちながら、草綿をほぐしているところだった。こいつを糸にして、ジョナサンの服の穴を繕ってやるつもりだ。
時折視線を上げて、野営地のどこかにいるジョナサンの姿を探してみては、どんなことをしているのか見つめている。

ゴブリン達の歓声が、ネムの耳には届いているだろうか。

その日、ジョナサンは自分の仕事を休み、ゴブリン達の商売の手伝いをしていた。
腕力にものを言わせて一度に多くの荷を運べば、その度上がる歓声に、いい加減苦笑して見せて。

「……俺はいいから、お前達も働いたらどうだ?まったく……」

そう言いながらもどこか楽しそうなジョナサンの鼻に、ネムの焼くパンの薫りが届いたようだ。
ふと足元の荷物から視線を上げると、彼女の姿を探す様に周囲を見渡して。

ジョナサンと目が合うと、ほっと安心したようにはにかんで、ネムはまた手元に視線を落とそうとする。

そんな賑やかだが穏やかな時間の流れる野営地にふらり、と見慣れぬ人影が現れる。
その姿を真っ先に見つけたゴブリンが不思議そうに首を傾げると、近くの仲間を小突き人影を指し示す。
きょろきょろと何かを探すように、辺りを見回しているのは赤い髪と褐色の肌を持つミコッテの青年。

「……ここは、ゴブリンの野営地か」

パンの焼ける匂いにつられてきたきたのか、何かを探して彷徨っていたのか…それとも以前の彼らの言葉に気が向いて足を運んだのか…それは本人にもわからない。
ただ、普段は近づかないそこに、彼はたまたま近づいて、たまたまその姿が二人の目にうつった。

不意に様子が変わったゴブリンたちに、ネムも異なる気配を感じたのだろう。満月のような瞳が、剣のように鋭く研がれた。ざらりと辺りを見回した中で、赤銅のような毛並みを見つけて、ぱっと顔を明るくする。

「……チャ・シスか!?」

ネムの様子につられてぐるりと周囲を見渡す。
彼女の先日知り合ったミコッテを呼ぶ声に、ようやく彼の姿を確認して、少しほっとしながら作業に戻った。
歓声を上げていたゴブリン達は、なぜか心配そうに肘でジョナサンの脚を小突いてくる。

「……彼は大丈夫だ。ネムの友達だよ」

そう言い含めながら、ジョナサンは荷車へ残りの荷を乗せる。

嬉々とした声に反応してピク、と耳が動く。

「…やあ、ネム。ジョナサンもいるのかい?」

ゴブリン達の様子は気にすることなく、チャ・シスはにっこりと笑い、片手をあげてネムに応えた。

やはり心配そうな、若い娘ゴブリンがつついてくるのを宥めつつ、ネムはこいこいと手招きする。膝の上に綿を広げているばかりに、すぐには動けないのだ。

「うん、いるぞ!遊びに来てくれたのか?腹が減ったか?」
「パンの焼ける良い匂いがしてね」

手招きに応えて、ネムの傍に歩み寄るとその隣に腰を下ろす。

「えーと、ジョナサンは…っと」

ひと段落ついたところで、依然心配そうに纏わるゴブリン達をかき分けつつ、ジョナサンは二人のミコッテの傍へ歩み寄った。

「……やあ」

ネムの嬉しそうな様子を確認しつつ、チャシスに短く挨拶して。

「ジョン」

側にやってきたジョナサンを見上げて、顔を綻ばせる。すっかり表情が豊かな、娘らしい面持ちだ。

「ふふ。パンの匂いにつられてきたらしいぞ」
「やあ、ジョナサン」

声を掛けられジョナサンを見上げる。

「お言葉に甘えて遊びに来たよ。ふふ、お腹が空いててつい、ね…」

そうして、少し照れくさそうにはにかんで見せた。

「そうか。ネムのメシで良ければ、たらふく食っていくといい」

ネムを見つめながら、からかうように口角を上げる。
周りでうろうろしているゴブリン達を安心させる様に、一つ頷いて見せて。

「少し騒がしい場所だが……ゆっくりしていくといい」
「!」

家主の言葉に、ネムは嬉しそうに尻尾を跳ね上げた。膝の上の綿もふんわり舞い上がる。

「うんっ、じゃあ、張り切って作るぞ。ジョンも、チャ・シスも、食べたいものはあるか?できるものなら何でも食べさせてやるぞ」

綿を袋にしまいながら、頬を上気させている。よほど、客人が訪れたのが嬉しいのだろう。

「食べたいもの……」

食べたいものはあるか、と聞かれてチャ・シスは少し思案する。
尻尾がぺたん、ぺたんと地面を何度か叩くと、柔らかく微笑み、

「ネムの得意な料理がいいかな、うん」

と答えた。

「あ、必要な素材とかあったら、お肉とキノコ位なら持ってるよ。彼、いっぱい食べそうだし…」

とジョナサンに悪戯っぽく笑う。

「……だ、そうだぞ。ネム」

付けていた皮手袋を脱ぎながら、焚火の傍へ腰を降ろす。
露になった古傷を解す様に揉みながら、濡らした手拭いで清めていく。

「心遣い、痛み入る。ネムも食材が多い方が作りがいがあるだろうしな」
「それじゃあ……そうだな、きのこを少しもらってもいいか?肉は今日、アンテロープを狩ってきたんだ……シチューのリベンジをするつもりで」

側にやってきたジョナサンの腹に、自慢げな長い尾をふんわり滑らせる。親密なしぐさだ。それからネムは身軽に立ち上がって、パンの焼け具合を確認して。

「そういえば、今日はどうだ?痛むか、ジョン」

いつも通り動くと言うようなつもりで、ネムに向けて左手を掲げた。

痛々しげな傷も慣れたものか、ネムは慈しむような手つきで、そっとジョナサンの手をひとつ握る。

「うん……ずいぶん良いな。偉いぞ」

自然な様子で、愛しい相手を労る声音。

「うん、わかったよ…?」

キノコの入った袋を差し出そうとして、二人の様子にチャ・シスは首を傾げる。

チャ・シスからきのこを受け取ると、ネムはいそいそと焚き火に取り付けられたハンガーに鍋をかけ始めた。夕げの準備だ。

「君達……、いやいいか……ジョナサン、君、怪我でもしたの?」

その生々しい傷痕が、チャシスの目にも入っただろうか。

「……古傷だ。少し不自由はしているが、動く」

ジョナサンのその傷痕を見た瞬間、チャ・シスの目が開かれた。

「……っ」

ぼんやりと、傷痕の向こう側に何かを見ているように目が虚ろになる。
そのまま体の力が抜け、ふらり、と倒れそうになるのをぎりぎりでこらえると、目頭を押さえて首を横に振った。

「……チャ・シス?」

チャ・シスがふらついた様に見え、慌てて手を伸ばしかける。
ネムは料理に取りかかり始め、気付いていないようだ。

「……大丈夫か?疲れているんじゃないのか」

何かを振り払うかのようにふるふる、と首を横に振る。

「大丈夫…って言っても説得力なさそうだねぇ…」

そう、努めて明るく言おうとするその顔色は酷く悪い。

「でも大丈夫だよ、『よくあること』なんだ」
「良くある事……?お前こそ、持病持ちか何かなのか。無理せず休め」

横になってもいい、と言い含めつつ、ネムに向き直って。

「……すまん、ネム。水を貰えるか。チャ・シスが少し疲れているようで……」
「うん?」

肉をナイフで叩いていたネムだったが、手元から視線をあげてチャ・シスを見るなり、ぎょっと毛を逆立てた。

「酷い顔色だな!待ってろ、何か羽織るものも持ってくる」

テントに走っていったと思えば、温かそうな布と水の入ったボトルを持ってくる。生水を沸騰させてつめてから、川の流れで冷やかしたものだ。

「…はは、ごめん」

二人の反応に困ったように笑うと、ぺたり、と膝をつく。あぁ、参ったな、『彼の過去』は、まるで自分の『それ』と似ている。こっそり心の中で溜息をつく。

「少し休んだらよくなるから…ちょっと休ませてほしい、疲れてたみたいだ」

自分の傷は癒えていないのだな、と内心苦笑した。

「ああ。遠慮するな」

チャ・シスのその様子に自分が関わっているとは露知らず、心配そうに呟く。
ネムから受け取った水を渡し、布を羽織らせてやって。

「大丈夫だ、ネムのメシは疲れも吹き飛ぶぞ。少しでもいいから食べていけ」
「……うん。体の温まる、とっておきを作るからな」

ジョナサンの、ネムの料理への評価が過大なような気がして、少し恥ずかしい。はにかみながら、チャ・シスの顔を覗き込んで笑った。

「……あっ、そうだ。温まるといえば、蜂蜜酒があったな。りんごを浸けてあるんだ。少し飲むか?」
「…うん、ありがとう」

水を受け取り、一気に半分ほど飲み干す。
ふう、と深く息を吐けば少し落ち着いたようで。

「蜂蜜酒かぁ…美味しそうだ、少し貰いたいなぁ」

ふふ、と笑ってネムに応えるとジョナサンを見上げ、

「すっかり奥さんじゃないか、ねえ、君もすっかり旦那さんみたいだ」

と悪戯っぽく笑った。

「おっ……」

びょん。真っ白な尾が垂直に跳ねた。

「ちちちちちが、違うぞ!!そんな、そんな厚かましいこと……じょ、ジョンは私を助けてくれているだけなんだ、ほんとに!!」

真っ赤な顔で慌てふためきながら、ネムは転がるように、再度テントへと向かってしまう。怒っているような、恥ずかしがっているような、それでいて嬉しそうに尻尾が跳ねているのはなぜなのか。

「もう!からかうなんて酷いぞ!今酒を持ってくるから待ってろ!ピクルスもつけてあるぞ!それから……」

ぎゃあぎゃあ喚く声が、テントに入ったことで遠くなる。

チャ・シスの言葉とネムの反応に一瞬固まって。

「……馬鹿な事を」

呟きながら気まずそうに視線を逸らすと、一つ溜息を吐いてから、元の場所へ腰を降ろした。

ネムがテントへ入ったのを確認して、そちらを見たまま。

「……あまり揶揄ってやるな。彼女は真面目で優しいから、そうあらねばと思ってしまうかもしれん」
「ネムの尻尾を見るにまんざらでもなさそうだったけど」

二人の反応に満足そうに笑うと、ごろん、と横に転がって丸くなる。

「そうしなければならないか、じゃなくて、そうしたいか、だよぉ、恋とか愛とかそういうのはね」

君はどうかな?と上目遣いでジョナサンを見る。

チャ・シスの言わんとしている事は理解していたが、何か計るような彼の目に、思わず視線を逸らして。

「俺には何もわからん」

視線の先にある焚火を、何となしに見つめたまま。

「それに……俺には、そんな資格はない」
「そっかぁ」

わかりたくないんじゃないのぉ?という言葉は飲み込んだ。

「資格とか、そういうの、たぶんあの子には関係ないんじゃないかなぁ」

直接聞いたって教えてくれないだろうけどね、とネムの反応を想像しておかしそうにふふふっと笑う。

「それに…君にそんな資格がないっていうなら…僕だって、こうして、穏やかに過ごしてる資格はないさ」

無意識か、ぽろり、とついこぼれたかのような言葉。
チャ・シスの視線はジョナサンから焚火にうつっていて、ぼんやりとその炎を瞳にただ映していた。

チャ・シスの最後の言葉に引っかかるものを感じ、一瞬彼の方を見る。

「………そう、か」

だが自らも同じようなものだと、追及することもなく、視線を焚き火へ戻す。
薪が爆ぜ、火花が小さく散る。

小さな足音とともに、ネムが二人の側に戻ってきた。小振りのトレイの上には、リンゴの漬かった蜂蜜酒の瓶と、木を掘って作った簡素な器。ネム手製のにんじんピクルスと、ゴブリンたちがよこした香りの豊かすぎるチーズも出てきた。

「ほら。シチューができるまで、少しかかるからな。これで腹を持たせておくんだぞ」
「わぁ、ありがとぉ!」

ネムが戻って来たのを見て、がばり、と起き上がる。

「……………凄い匂いのチーズだねぇ…」

そして、起き上がった瞬間に香ってきたチーズの香りにキュッと顔をしかめた。
その顔色は大分よくなっているようだ。

ずいぶん具合の良さそうなチャ・シスの様子に、今しがた二人で何を話していたのか気にする風もないまま、ネムも顔をくしゃりとしかめている。

「味は良いんだぞ……」

さあ食べろと言わんばかりに、二人の間につまみを置いて、ネムはシチュー作りに戻ろうとする。アンテロープの肉を、今度はしっかりワインで煮込むのだ。

「その匂いが癖になる。俺も慣れるのには時間がかかったが……」

ネムが持ってきた酒とつまみを受け取りつつ、二人の表情に苦笑する。

「だが、ネムの蜂蜜酒は呑み易くて良いぞ。さあ、チャ・シス」
「君ほんと……まぁ、いいか。早速、いただこうかなぁ」

蜂蜜酒を受け取り、香りを楽しむ。
甘い蜂蜜の香りの中にほのかに混ざるリンゴの甘酸っぱい良い香り、きっと美味しいだろう。嬉しそうに尻尾をゆらゆらと揺らし、一口、口に含めば、ふわり、とチャ・シスの顔が緩まった。

「わぁ!美味しいなぁ!」
「……そうだろう」

うんうんと頷いて、チャ・シスにつまみを勧める。

自分もチーズをひと欠け手に取り、口に運んだ。鼻に抜ける匂いに一瞬表情が強張る。
それを流し込むように酒をぐっとあおった。

「気に入ったか?よかった」

ネムの尻尾が嬉しそうに跳ねた。
ジョナサンが、当然のようにネムの作るものを勧めてくれるのが嬉しいし、それをチャ・シスが受け入れてくれるのも何故か嬉しい。

リンゴをもごもごと満足そうに頬張ったあと、チャ・シスはジョナサンに真似てチーズをひと欠け手に取り口に放る。
ぴゃあ、と尻尾をピン、と立て、毛を逆立てさせて急いで蜂蜜酒を流し込んだ。

「……これはシチューも楽しみだねぇ」

そっとチーズをジョナサンの方にやりながら、ふふーと笑う。

二人の口数少ない会話に混じって、野菜を刻む小気味良い音がする。前はかなり細かく切っていたのが、今はジョナサンの口の大きさに合わせて、少し大振りだ。チャ・シスからもらったきのこは、ワインで柔らかく煮込んだ肉と先に合わせて、香りと出汁をとる。

「ああ……うまいぞ。元気が出る」

立て続けにチーズはしんどいのかピクルスを暫く齧る。
そのタイミングが、ネムが野菜を刻む音に自然と合っていくようで。

そして先程と同じようにチーズを口に運び、酒で流し込む。
言う通り、癖になっているようだ。

「……よく食べられるねぇ、それ」

ピクルスをかりかりと齧りながら、チーズを口に運ぶジョナサンを横目で見る。
ネムの野菜を刻む音と、ジョナサンのピクルスを小気味良く齧る音に耳をぴくぴくさせる。

「君たち、一緒に暮らして長いのぉ?すっごく仲良しさんだけど」

チャ・シスの声が聞こえているのかいないのか、単に調理に熱中しているのか、ネムは鍋を眺めるだけである。ハーブを浮かべて香り付けをし、ごろごろと野菜を入れていく。ふんわりと、肉ときのこの香りが強くなった。

「……いや……」

ジョナサンはふと、この短い期間にあった色々を思い浮かべる。
出会った時の事と、傍で料理を続けている事がどうにもつながらなくて、思わず笑みを溢す。

「つい最近だ。出会ってからも、そんなに経ってない」
「へぇ…!?」

驚いた、といった風に目をまんまるくさせる。

「一体何がどうなってそうなったのか不思議なくらい、ハタから見てたら仲良しさんだよぉ」

ふっしぎーとピクルスを口に放りこみ、ぼりぼりと食べる。

「とっても穏やかで、幸せで、楽しそうで羨ましいくらいだ」
「……ああ。なぜこうなったんだか、俺にも分からん」

ネムを振り返る。夢中で料理を続ける彼女を、穏やかな表情で眺めて。

「……ただ、今のこの環境はネムのお陰だ。それだけは確かだ……」

火の近くで暑いのか、額に滲む汗を袖で拭うネム。ふと向けられた二人の視線に気付いたのか、はにかんで笑う。

「もうちょっとだぞ。野菜に火がはいるまで」

はにかむネムに、優しく微笑み片手をあげて応える。

「うん!ジョナサンとお話しながら待ってるねぇ~」

と、穏やかな表情のジョナサンを横目で見る。
焚火の光に照らされたその顔は穏やかな幸せが滲んでいるように見えて。

「……良かったねぇ…そういう人に出会えて」

焚火に視線を戻し、蜂蜜酒を流し込む。

「……俺には、過ぎた存在だ。だが……」

穏やかにネムを見つめていた視線を、僅かに伏せて。

「いずれあの子が、本当に幸せになる時までは……見守っていきたい」

「……そういうとこだよ、君」

ぼそり、と呟きため息を一つ吐く。
傍らに空になったコップを置き、再びごろん、と横になった。
酒が回った時の独特の気持ちの良い浮遊感に身を委ねたのか、すっかりくつろいでいる。

「ネムが幸せに…んー、幸せにするのは誰なんだろうねぇ」

そう、まるで独り言のようにつぶやいて、楽しそうにふふ、と笑った。

「ジョン!チャ・シス!できたぞ!」

チャ・シスが呟いた言葉を掻き消すかのように、ネムの弾んだ声が聞こえた。
鍋の中でとろりと煮えたシチューを、おたまでかき混ぜる。甘く味の染みた野菜の匂いと、肥えた肉の香りだ。ゴブリンたちもこの匂いにはたまらなかったのか、相伴に預かろうと自分の皿を手に列を作り出した。

「わかった、わかったから、ちゃんと皆の分もあるから」

シチューの皿に焼きたてのパンを添えて、まずは、と二人分、ジョナサンとチャ・シスに差し出す。

「いっぱい作ったから、たくさん食べるんだぞ」

豊かな湯気の向こうで笑うネムは、とても幸せそうだ。

  • 最終更新:2018-07-08 22:16:25

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