20181207
黒衣森北部、フォールゴウド。
湖上の町を森からの穏やかな風が吹き抜け、陽光に暖められた空気がみるみる町中に満ちていく。
そんな陽気と相反するような、冬の冷気を纏った人影がひとつ。
フォールゴウドよりさらに北、厚い雪に覆われた極寒の地、クルザス方面から訪れたであろうその人影は、暖かい風と共に漂う森の香りを一つ吸い込むと、満足げに嘆息した。
「………ネム」
目深に被ったフードの下で、その男──ジョナサンは静かに、一言だけ呟いた。
久しぶりに感じる、森の匂い。
それから連想されるのは、やはり──。
「そんなに会いに行きたければ会いに行けばいいじゃない」
突然、声を掛けられる。
いつの間にいたのだろうか、ジョナサンの背後に立つのは深い草木の香りと、微かな甘い匂いを纏った紅色の毛並みを持つ青年。
「彼女も君を待っているよ。長老の木の根元で祈りを捧げながら、ずっと」
ねぇ、ジョナサン。そう青年───チャ・シスは微笑みを浮かべながらささやいた。
「お前………チャ・シス?」
驚き振り返れば、橋げたを踏みしめる具足ががちゃり、と無骨な音を立てる。
湿気って張り付く外套も歪に凹凸し、その下に纏っているものを容易に想像させるようだった。
「……偶然だな。こんな所で何を?」
突然現れたチャ・シスに僅かに警戒しつつ、彼の言葉をはぐらかす様に応えた。
「……まぁ、いいや」
チャ・シスはわずかに眉を寄せたが、はぐらされたことに関しては何も言わないことにしたようだった。
「妹の墓参りに行くとこだったんだよ。君を見つけたのはほんとのほんとに偶然、だからそんなに警戒しないで欲しいなぁ」
警戒を見せるジョナサンに対してやれやれ、と深くため息を吐く。
敵意はない、というように手をひらひらさせた彼は、武器や防具は身に着けていないように見える。
「……すまん。悪く思わないでくれ」
そうチャ・シスに詫びると、僅かに首を垂れて。
「そうか……妹さんの……な」
柔らかな光を放つ、フォールゴウドのエーテライト。そのそばのベンチの一つに腰掛けながらジョナサンは呟くように言った。
傍らに荷を下ろせば、背負っていた巨大な布包がごとりと鈍い音を立てる。
「うん、病気でね。ネムと同じ年頃だった」
どこか悲しそうに微笑む横顔をエーテライトの光が照らす。まあ、僕のことはいいよ、とチャ・シスもジョナサンの隣に腰を下ろした。
仰々しい音を立てたそれが気になったのだろう、彼が背負っていた巨大な布包をちら、と横目に見る。
「…それにしても君も随分と危険な恰好してるじゃない、戦争にでも行くの?」
ついにその装いの事に触れられ、ジョナサンはごまかす様に笑みを零した。
まさか、それにも近しい事を始めようとしているとはとても言えなかった。
「……食い扶持も増えたしな。昔取った杵柄で、何か稼げるようなことは無いかと思ったんだが……」
戦争かと小さく呟きながら、外套の上から胸を撫でれば、僅かに金属音が聞こえて。
「ふうん」
稼げるようなことね。そう呟いて、チャ・シスはジョナサンから視線を外しエーテライトを見上げる。
ネムから話を聞いているから、ジョナサンが言う事は自分を誤魔化すためのものだろうというのはわかっていた。そして、彼がしようと思っていることも。
「…良いところ教えてあげよっか、僕、こう見えても情報屋だからね、ツテはいっぱいあるんだ」
「情報屋……」
その言葉に、ジョナサンは改めてチャ・シスを見る。
情報といえば、ミコッテに執着し、魔導仕掛けの義手を持つ手下が居たということ以外、ネムを追う相手の事を碌に知らないままだ。
いざとなれば、疑わしい者を片っ端から片付けていく覚悟もあったが──。
「……そうだな。例えば、私兵を求めているような金持ちとかは……どうだ」
「んふふ、そうこなくっちゃ!」
そうだなぁ、あいつとか、こいつとかとチャ・シスはジョナサンに紹介できそうな人物を指折り数えている。
「…ここだけの話、違法な物を蒐集していたりとか、人身売買とか、とにかく裏稼業に手を出してる金持ちはいつでも私兵募集中だよ。特に、口数少なく口が堅く、身元がわからなくて、死んでも誰にも気づかれなさそうな奴。それで強かったらもう大歓迎。それとも、善良な金持ちのがいい?雇ってもらえるかは微妙だけど」
「……裏稼業……か……」
話もそこそこに、チャ・シスの数え上げる人数を眺める。
その中の誰を。何人を片付けることになるのか。
無意識のうちに布包を引き寄せる手に、ぎしぎしと力が籠る。
ジョナサンの手に力が籠るのを確認すると、チャ・シスはふふんと笑った。
「こわいのぉ?それとも不安?…まぁ、君ブランクありそうだしねぇ。それなら無理難題言わなそうなやつにしてあげよう、君に怪我させたらネムにも怒られちゃうし」
そう言うと、羊皮紙とペンを取り出し、さらさらと名前を書いていく。
「……ネムも覚悟はしてくれている。出来るだけ多く、頼む」
そう言いながら、ネムと別れた日の事を思い出す。
泣きじゃくる彼女は最後に、帰らなければ自害すると言った。思い返すたび、胸を掻き毟られる思いを味わう。
「……彼女の為なんだ」
「…まぁ、そこまで言うなら」
ジョナサンの様子を見て、はぁ、と溜息をつく。
ジョナサンがネムのことを深く想っていることは、超える力がなくても分かる程で。最愛のために、最愛の幸せのために危険も顧みず行動しようと思う彼の気持ちはチャ・シスもよく分かる。
しかし、簡単に最愛の幸せへ至らせてしまっていいのだろうか、一瞬、考えるように書く手を止めたが、再び羊皮紙の上にペンを走らせ始めた。
「君が本当に欲しい情報に近いであろうものをあげるよ」
「……俺の……?」
何か含むようなチャ・シスの言葉だったが、訝しむ間も追及する間も惜しむように、改めてそのペンが綴る名を眺める。
チャ・シスはしばらくペンを走らせていたが、やがてペンをベンチに置き、くるくると羊皮紙を巻く。
紐で縛り、はい、とジョナサンに巻いた羊皮紙を差し出した。
「僕が今から紹介するやつらはねぇ…」
辺りを一瞬、見渡す。人通りも少なく、こちらを気にしている人物がいないことを確認すると、声を潜めて言葉を続けた。
「今裏で一番高値で売れて、金になる商品は…人。つまり、人身売買に関わってるやつらさ。貴族、商人、庸兵団…色々いるけど、まぁ、扱ってるものがものだから皆、金は持ってるよ。『紅影の情報屋』から紹介されたって言えば大丈夫だから、君の好きなところから行ってみなよ」
「助かる」
短い返答だった、が。
チャ・シスの言葉を反芻する内、ジョナサンの中でみるみる殺気が漲っていく。ネムのような人々を食い物にする、本来ならば嬲り殺しにしても足りない外道共。
ただ今は、目的を履き違えてはならない。
「……出来る事なら、そんな連中とつるむ事などしたくはないが……」
どういたしましてぇ、とチャ・シスは満足そうに頷く。
「まぁ、…君が思うようにすればいい」
妖しい光を瞳にたたえて、チャ・シスはその口許を三日月型に歪めた。
他人の不幸の上に胡坐をかいているやつらなど、死んでしまえばいい。生きている限り、やつらは他人の不幸を踏み台に幸福を掴もうとするのだから、そんなやつらは消えてしまえばいい。
利用するだけ利用して、捨ててしまえばいい。ジョナサンも、そこまでしてしまえばいいのに、とチャ・シスは思う。
「君が何をしようと、どうなろうと、だぁれも気にしないさ。人間は君が思っている以上に薄情な生き物だからね」
「……そう、かもな」
言いながら、チャ・シスから目を逸らしてしまった。自分も嘗て、彼の言う薄情な生き物の側であっただろうから。そしてある面では、きっと今も。
吹っ切る様に荷物を手繰り寄せ、ベンチから立ち上がった。ごう、と妙な重量感を持つ布包が風を切る。
「チャ・シス。迷惑ついでに、もう一つ頼まれてくれないか」
「なぁに?一宿一飯の恩があるからね、特別に今回はタダにしておいてあげるよ」
風を切る布包にどこか妙な気配を感じ、布包を一瞥する。しかし、すぐにジョナサンに視線を向けると、なんだ、と言うように首を傾げてその瞳を覗き込んだ。
「……ネムを見守っていてくれ。頼む」
それだけ言って、ジョナサンは徐に背を向けた。
それ以上の言葉を遮るような、そびえる壁のような背中。
覚悟を抱いた戦士の背中だ。
信頼されてる、のかなぁ。
ジョナサンの背中を眺めながらこっそりと嘲笑う。
「僕にそんなこと頼んでいいのぉ?…まぁ、任されたけど」
ジョナサン、僕は薄情で、ネムを食い物にする奴らの味方をするような外道なんだよ。心の中でこっそりと呟く。
ネムを狙っている存在に繋がっている奴らの名前は、自分を雇っている奴らの名前は羊皮紙に書かれている。そこをどうするかはジョナサン次第だ。
ネムの苦しみを、憎しみを、外道共を含めて、ジョナサンが全部終わらせてくれればいいとチャ・シスは思った。
「…ジョン!」
ジョナサンに向かって、包みを放り投げる。中身は持って来た酒と、ネムがくれたサンドイッチを半分。
「餞別!」
チャ・シスが投げて寄越したものを、振り返りもせず片手で受け取る。
アルコールとパンのかすかな香り。
貰っていく、と見せつける様に手を掲げると、ジョナサンはそのまま去って行くのだった。
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数日後。
ある事件がウルダハの裏社会を大いに騒がせる事になるが、今はまだ、誰も知る由もない──。
- 最終更新:2018-12-08 15:35:53