RBB後編

時は、黄色い地平線の向こうに陽が沈んでしばらく経った頃。未だ帰らないエレルヘグを案じながら、仲間たちは不滅隊本部にて、報せを待ち望んでいた。



「待ち人は来ないねえ」

夜の帳がウルダハの町並みを覆っていくのを眺めながら、ゾーイはわざと声を大きく上げた。豊満な体は縄に押し込められていて、しかしこれも目を離せばすぐ抜けていってしまうので、横には仏頂面の隊士が、見張りとして佇んでいた。
ゾーイの視線が、そこで長の帰りを待つ、雛たちを撫でていく。

「………………」

エ・レミナは腕を組んで作戦本部の壁に寄り掛かったまま、一言も話す様子はない。表情も一見普段のまま。
ただその場で、一定のペースで床を片足で叩いているのが彼女の焦りの顕れなのは、誰が見ても明らかだった。

エ・レミナの明らかに普段とは違う苛立った様子を、ちらりと何度も見やるメア。本人に悟られないようにしているつもりなのだろうが、分かりやすく彼女の事を気にしていた。

エ・レミナの立つ場所から奥、本部の片隅で、プロスペールはちらりと上げた視線を、また下へと落とした。
もとより暗い色の服と髪は、いつもに増して夜の暗がりに同化しそうに見える。返事をする余裕もないのだろう、その視線は石畳の模様をそわそわとなぞるだけである。

アウラの少女────セイカは、プロスペールの長駆に身を隠すようにしてその傍に寄り添っていた。彼の服の腰辺りをしっかりと掴んで、まるでしがみつくような有様だった。視線は、そわそわと落ち着きなく、夜の往来をさまよっている。

その、往来を巡る少女の視界に。彼女とは逆の、黒い鱗の少女が見えた。
少女────サラーナは、エ・レミナたちがキャリッジで突っ込むようにウルダハに辿り着いた、その少し後に、彼らに合流していた。
そして、彼女はとんぼ返りするように、重傷を負い運ばれていくグユクに付いて、手続きや、看護室の諸々の準備を済ませに行っていたのだ。

それがようやく終わったのだろう。彼女がウルダハの市街区の方から、不滅隊の本部へと、人込みを縫って歩いてくる姿が見えて────

手を振ろうとしたセイカは、突然鬼のような形相になったサラーナに、その手を再びプロスペールの衣服へと戻した。

「こっ………んの!!馬鹿ッッッ!!!!」

夜を突き刺す鋭さで、甲高い少女の怒りが迸った。当然、街を歩く人々どころか、本部に集う仲間たちにも、そのよく通る、通り過ぎる声が届いたことだろう。
皆が何事かと見れば、サラーナは猛然と、本部の前を通り過ぎて駆け抜けていくところだった。

「……!」

サラーナの顔を見つけて、ほっと手を振ったのもつかの間だった。
怒涛の勢いに気圧されて、セイカは思わずプロスペールの服を握り直しながら彼女の走っていく先を見守った。

「あっ、サラセンパイおつかれ! ……ッス? あれっ」

手を上げ、労いの言葉を先輩にかけようとするも、サラーナのあまりの勢いに気圧され、思わず言葉が詰まるメア。

そうして驚きに目を瞬かせたのは、ゾーイもだった。隼のような鋭さでもって風を切っていった彼女の後ろ髪に、微かに、ほ、と柔らかい息を吐く。

「……お帰りのようだね」

ゾーイの言葉通り。

不滅隊本部の軒下から出て、ナナモ新門のほうを見やれば、そこには大柄なアウラの青年が居た。殴り掛からんばかりの勢いで駆け寄ってきた妹に、大小あらゆる荷物──────ごく小さなベルトの物入れまで──────をひったくられ、足を引きずりながら、困り顔をしている。
エレルヘグは、あちこちに傷を負っているのが見るだけでわかるものの、さして普段と変わらぬ表情を上げ、それから、カンパニーのメンバーを見つけると、呑気に、挨拶するように軽く手を挙げた。

「……すまない。待たせたようだ」
「待たせたじゃないわよっ!!ちょっと、だれか上背ある人!肩貸してっ。あたしじゃ無理だから……!」

「プロスペール…!」

行き交う雑踏の向こうに、待っていた姿を見つけた。ピン!と白い尻尾が勢いよく跳ね上がった。
体を支えられる人を探していることに気づいて、セイカは考えるより先にサラーナ達の方に駆け出しながらプロスペールの服を引っ張る。

「ボーッとしてないでほら、プロセンパイ! アタシらッスよ!」

ばん、とプロスペールの背中を叩きメアも促す。その顔には先程までのおどおどとした表情はなく、長の帰りを喜ぶ顔があった。

はっと我に返って、プロスペールはセイカに手を引かれながら駆け出した。
上背のある人、と聞いて、自分の身を顧みる。
籠の取っ手に使われたメープル材くらいの柔らかさと細さだが、自分でも杖くらいにはなれるはずだ、と。

「…………!」

桃色の尾と耳が、ぴんと天に向かって跳ねる。
まさしくこれを待っていたというエ・レミナの反応────だが、彼女は駆け寄る事はしない。
代わりに、じとりと両目を細めて、まるで数秒前の尾と耳の変化など無かった事にするかのように、遠目から見ても満身創痍なエレルヘグを見据える。

「……確かに私は、負ける事は許さない、と言いましたが。負けなければ何でも良い、という意味では無いのですが?」
「……すまないな、二人とも。セイカ、サラーナも」

素直に、二人のそれぞれ薄く骨ばる肩、厚くまるい肩に両腕を預け、エレルヘグはひょこり、と歩き出した。サラーナとセイカが、自分の荷物を分け合っているのを見守りつつ、壁に張り付いたままで非難じみた紅色の視線を投げかけてくるエ・レミナを見た。無表情のままだが、おそらくはその顔に申し訳ない、と書いてある………のだろう。

「確かに。俺もこの予定ではなかったのだが、相手もただでは死なない男だった。だが、エ・レミナ、君のおかげでこれで済んだとも言える」

四人がかりで運ばれるような有様ではあるが、なんとか本部の屋根の下に入ると、エレルヘグは、オレンジのランプに照らされた顔で、桃色の猫を見下ろした。見ようによっては────彼女から見た光の角度なのかもしれないが────微笑んでいる、ような、気がしないことも、ない。

「……感謝している。グユクにはすまないことをしたが……君等を連れて行った判断に、間違いはなかったようだ」

それから周囲を見回し、ゾーイの姿までを見留めて。エレルヘグは満足げに、深く頷く。到底、足の動かぬ重傷人には見えない、朗らかな気配だった。

「そして、君等にこちらを任せた判断も。……皆、よくやってくれたな」
「君が手掛けた雛だ、当然だとも」

エレルヘグに合わせて、ゾーイもひとつ頷いた。

「おかえり、我らがエレルヘグ!紅茶にするかい?酒にするかい?それとも私の熱い抱擁かな?」
「そうだな、」
「……そんなものはどうでも良くて…… ああ、もう!」

フー、というミコッテ族特有の吐息と共に、再びエ・レミナの両耳が立つ。

「………」

至極真面目に、ゾーイの問いかけに答えようとしていたエレルヘグだったが。ミコッテの威嚇音を聞き、口を噤む。
ようやく運ばれてきたエレルヘグの元へ数歩だけ歩み寄ると、エ・レミナはその容態を覗き込むように少し上半身を屈め、首を上げた。
ひとまずサラーナから荷物を受け取り後に続いて、セイカも本部の方まで戻ってきた。
エレルヘグはいつもと変わらぬ穏やかな様子に見えたから、思ったよりも傷は浅いのかと安堵しかけるも、血まみれの足首が奇妙に脱力しているのを見つけてしまった。

「……」

容体を見始めたエ・レミナとエレルヘグを、サラーナの傍で心配そうに見守っている。

「…………奴は捕らえられたのですか」
「残念だが……それは叶わなかった。…………しかし、向こうも相当な重傷だ。暫くは行動できまい、仮に野垂れ死にを防いだとて、傷跡が判別条件になるかもしれない程度には、な。……だが、第三者の助力があった。単独犯ではないのかもしれない」

それから、とエレルヘグは鋭い目を背後のサラーナに向けた。妹はひとつ頷き、震える腕いっぱいに抱えた、巨大な大剣を、殆ど地面に擦りながらも差し出す。

「あの男が残していった大剣だ。魔力の残滓なり、血痕なり、削れた痕なり……目撃情報なり。少しは、ヒントになるだろう………。……エ・レミナや、プロスペールたちのほうはどうだったのだ?何か、有力な答えは。あの商人の関連も知りたいところだが」

名を呼ばれて、プロスぺールは思わずエ・レミナ達へ視線を移した。

「その事ッスけど、あのおじさん、奴隷商人だったんス! まったく、胸糞悪いッスよね! 襲われても仕方無いッス……」

左肩に担ぐエレルヘグに、暴かれた事実を伝えるメア。
山賊時代、何度も見た光景であった。劣悪な環境下、身動きも満足に取れないほどに詰め込まれた「商品」と、ソレを扱う下衆な連中に嫌悪感を隠す様子は見られない。

「………………まぁ、良いでしょう。大まかな事情はメアの説明通りです。あのキャリッジの中身は人間だった────今まであの男が斬った者らも商人だというなら、似たようなものである可能性は高いでしょうね」
「奴隷商なんてやってる奴らは、顔ぶれが同じだからね。“保護”された男から、不滅隊がたっぷりと情報を聞き出すつもりらしい」

姿勢を低くして、じっとエレルヘグの身体確認をしながら、エ・レミナが話す。
首が疲れるので目を合わせようとはせず────怪我の状態を詳しく診て、彼女は露骨に顔を顰めた。

「…………手酷くやられたものですね。本来なら数時間は勝利の定義について説く所ですが………… ……まぁ、あれだけの使い手なら、という事にしておきましょう」

「さて……」

ゾーイは肩を竦めた────と同時に、ぽきんと関節の外れる音がする。そのまま蛇みたいに縄を抜けてしまった彼女は、傍らの不滅隊士を見上げてにんまりと笑んだ。

「ヘグによれば、商人を襲っていたのは“彼”と別人。そろそろ私もおとなしく縄についている理由が見当たらないね?」

サラーナから差し出された大剣を、軽々手にとって、ハイランダーの隊士が頷いた。

「解放しよう」
「ふむ。そうか………。………とりあえずは、我らが仲間の冤罪も晴れた、ということでよいのだな」

ゆるりと首を傾け、再びひとつ頷き。エレルヘグは、先ほどの死闘などまるきり無かったかのように、あっさりと、請け負った仕事の終わりを告げた。

「ならば、我々の出番はここまでだな。皆、ご苦労だった。負傷者は出たが、死者はおらず、取り返しのつかない喪失もない。成功と言っていいだろう」

「……ねえ、そういえば、ゾーイ。さっきの男の人はまだ牢屋なの?」

肩を借りている兄の隣で、歯を食いしばるようにして隊士に大剣を引き渡し、あまりの重さに痺れてしまった腕を振りながら、サラーナが首を傾げる。

「黒ずくめの男……っていう目撃情報が悪かったわね。あのうさん臭い人も被害者なわけだけど、あの人も早く釈放してあげてね?隊士さん」

気持ちはわからないでもないけど、と小声で付け足しつつ、緑の釣り目がちらりとゾーイを見た。
彼女から情報を受け取りに向かった時、少しだけ言葉を交わした、黒髪の東方人らしき男。疑われるのも納得できなくはないが、彼が鉄格子の向こうで項垂れているのを想像すると、少しだけかわいそうにも思えた。

「取り返しのつかない、って言うッスけど……ヘグセンパイ。ちゃんとその足治るんスよね……?」

力なくぶらん、と垂れた足首を見やり心配そうにするメア。
自身には医療の知識は皆無であるが、同じような怪我を幾度も山で見てきた。
完治するものもいれば、再起不能を余儀なくされる者も居た。

「また……跳べるんスよね! そうッスよね!」

兄妹が、そろってきょとりとした顔をギャロッピング・メアへ向ける。

「これくらい、すぐに治るぞ」
「これくらい、すぐに治すわ」

流石は草原の戦士だ、と頷いてくれるグユクはここにはいない。

「躊躇いなく怪我するから、あたしも心配するけど。ゼラは……っていうか、兄貴は生命力もすごいから。すぐ壊すけど、すぐ治るわ。ちゃんと、きっちりね。それに、うちには癒し手がいっぱいいるし」

にこっと笑って、サラーナはセイカの手と、エ・レミナの手を取った。
サラーナに手を握られて、セイカは神妙な顔でコクコクと浅く頷く。こんな大変な怪我自分一人ではどうしようもないけど、精一杯手伝いたいと思ったのだ。

「治るまで徹底的にやるわ。徹底的に。覚悟しなさいよね、馬鹿兄貴」

「………………。」

心なしか、エレルヘグの真っすぐな視線が逸らされているのが、左隣のプロスペールにはわかっただろう。
サラーナの手を握り返す事も振り払う事もせず、ただやれやれというようにエ・レミナは小さな溜息を吐いていた。

「……ごほん、……話を戻すが、その被害者の男は?ゾーイ、君の知り合いらしいが」

エレルヘグがそう話を切り出したとき、ふと、数人の男達の笑い合う声が響いて来た。

ゾーイの縄も解けてようやく肩の力を抜いたところである。
向こうから聞こえてきた笑い声に、セイカはふと顔を上げた。

廊下の向こうから隊士が数人、ぞろぞろと連れ立ってくる。そしてその中心に、サラーナやゾーイが言っていたであろう、黒尽くめの青年が見えた。

「勝ち分はきっちり回収に来るからネ!アンタらの給料日、シッカリ覚えたよ」

サラーナの思惑など知る由もない男が楽しそうに話しているのは、隊士たちとの博打遊びの事のようだった。
どうやらしっかり稼いだらしい。

隊士たちにひらりと手を振って、振り返りざまに見つけたゾーイとサラーナに向けて、青年は同じ様に手を振った。

「飲み友達ってやつさ。愛らしいサラの心配は無用だったようだね」

ゾーイは呆れたような声音を出しながらも笑顔で、青年に手を振り返すことで応じる。

髪から瞳、纏う装束まで黒の青年は、ゾーイとサラーナを確認して、そして周囲の仲間であろう人々を見回した。
……なるほど、ゾーイの仲間らしく人の良さそうな人々ばかりだ。

「こんにちハ、皆さん。ゾーイのお友達でス」

青年は一応まだ名乗らずに、また同じように手を振った。

「ゾーイの知り合い…?」

セイカが囁く。
仲間達の方の間から顔を覗かせて、プロスペールもゾーイとクイの姿をみやった。
人見知り特有だろうか、一瞬首をかしげて警戒するような顔つきをしてみせる。が、ゾーイの友人というならば大丈夫なんだろうな、というような安心感もあった。
このあたり、本人も自覚していないが、なんだかんだゾーイに信頼を寄せているらしい。

「礼を言いたまえよ、クイ?このとおり、エレルヘグごと愛しのヘグは足の骨を砕き腕もひびいりやっとの思いで君の無実を晴らしてくれたんだぞぅ?君の稼ぎでもっても足りるかどうか」

青年────クイが一応秘匿した名前をあっさり暴露して、ゾーイはにんまりと唇を三日月の形にした。お友だちだよ、大丈夫、とセイカやプロスペールを見やりながら。

クイはゾーイに「何であんたはいつもそうなんだ」と抗議の視線を送る。
その後、エレルヘグと呼ばれたおっかない顔のアウラ・ゼラへ、実にわざとらしく深々と、慇懃に頭を下げた。

「結論から言えば、まったくの冤罪だった。真犯人は奴隷商を狙って襲っていた可能性が高いと」

「ああ。そして被害者の証言から、とある豪商に繋がることが分かったよ。裏で不当な取引をして儲けていたらしい」

大剣を預けてきたのだろう、ハイランダーの隊士が革鎧を音立てながら歩み寄ってきて、それから深く頭を下げた。威圧的な口調をほどいた、幾分か落ち着いた声音で。

「お二方、それからノイキン殿率いるフリーカンパニーの方々にはご迷惑をおかけした。報告に上がっている、大剣使いの男についてはこれから追うつもりだが……このウルダハに巣食っていた悪に辿り着いた。感謝するぞ」

例のハイランダーの謝罪の言葉にクイは何も言わないまま、ただエレルヘグや仲間たちに見せた笑顔とは真逆の、ほら見た事か、と如何にも見下し笑い飛ばすような顔で応える。

「予期せぬ所で大物が釣れた、と言った所ですか。その豪商についてはあなた方に任せて良いのでしょうね? こちらの戦力も無視できない損害を受けているのですが」
「勿論。あなた方には充分な休養をとっていただきたい。心ばかりの謝礼も用意する」

謝罪をしたはいいものの、クイの態度に彫り深い顔立ちをむっすりとさせながら、隊士はエ・レミナに頷いた。それからエレルヘグの方を見て、その眼差しに敬意を込めて、改めて敬礼した。

「さすがはノイキン殿率いるフリーカンパニーと言ったところだな」
「……」

隊士とゾーイ、エ・レミナのやりとりをよそに、セイカはプロスペールの傍に寄れば、その背中に控えめに寄り添った。そうして、わずかに頭だけ出すような格好で、クイ、と呼ばれた黒衣の青年をじっと見つめている。謝礼、という言葉にちらりと視線を隊士の方に向けたものの、やはり興味はそれほどではないらしい。大人しく、他の面々の判断を待っているという風情だ。
肩を借りるのを辞めて、怪我を感じさせない機敏な動作で敬礼を返し、エレルヘグは仲間たちを見回し────とりわけ、セイカとプロスペールという、最年少たちの背をそっと押し、並ばせた。そうして、堂々と言い放つ。

「すべては、俺でなく、ここにいる彼ら全員の働きと、真っすぐな心根、志によるものだ」

隣の妹と、それからセイカの頭にぽん、と手を置き。彼は、長兄の顔で微笑った。

「この感謝は、俺に向けられたものではない。皆に向けられたものだ。皆、心して受け止め、これを忘れず、これからも励もう。いいな」

決して無理強いするような力ではなかったものの、背中を押されたセイカは一度ちらりとエレルヘグを振り返った。おずおずとためらいがちにプロスペールの隣に並ぶものの、その様子はどこか落ちかない。
称賛を受けるべき働きをしたのは仲間たちであって、自分にはやや分不相応な賛辞に思われたのだ。つい、俯いて片腕を抱く。
すると、その丸い頭に手のひらが乗って、思わずびっくりと振り返った。

「………。」

かちあったのは、父か兄のように親身で頼もしい微笑みである。称賛は身にあまるものの、与えられたものは腕に抱えてみることにしたらしい。こく、と浅く頷いて、少しだけ顔を上げた。

……彼等の会話を頭上に聞きながら、プロスペールが事態を飲み込めないらしい顔でぽかんと立っている。気を付けの格好で。
自分は何ができたというのか。そんな後ろ向きな疑念を、エレルヘグの言葉がだんだんと駆逐していく。

キャリッジの中で無心に、奴隷たちの鎖を焼き切り続けた───あの数分間を思い返して、プロスペールは彼の言葉に、小さく頷いた。

そうして、エレルヘグはクイに向き直る。残念ながら、その頃には微笑みの名残もない。

「クイ殿といったか。貴殿にも、情報協力に感謝する。それに、ゾーイが世話になっているようだ。……物は相談だが、礼も兼ね、よければ近いうちにでも、我らのハウスを訪ねてはもらえないか?」

何、取って食いはしない。そう付け加えたはいいが、無表情が過ぎて、冗談らしさが足りていなかった。
セイカも、どうやら今回の件に巻き込まれたらしい青年の方にも、向き直ってエレルヘグの言葉に続くように、うんうんと頷いてみる。

エレルヘグの仲間達への真っ直ぐな言葉を、クイはふうんと興味なさげに聞いていたが、それが急にこちらへ向いて慌てて彼の方を向いた。

「別に、僕は何もしてないケド。確かに巻き込まれはしたけど……」

言いながら、エレルヘグとその仲間達をもう一度眺める。

正直、ゾーイがこの中にいるのが信じられない。人の好い者同士が信頼し合った、そんなむず痒そうな雰囲気を感じ取って、クイは一瞬嘲笑う様な、そんな表情を浮かべた。

「……ま、考えときマす。エレル……フグさん?」

「エレルヘグ」

兄本人が口を開くよりも早く、むすっとしたサラーナが、青年ふたりよりかなり低い位置から口を挟んだ。
クイの垣間見えた表情を、しっかり目撃していたらしい。
じーっと、警戒心と共に睨む妹を宥めるように肩に手を置き、エレルヘグはただ静かに頷いた。

「ああ。考えておいてくれ。…………では、我々も戻るか。グユクの様子を一度見て……ゆっくり身体を休めねば」

異論がないか、と確かめるように周囲を見渡す。隊士に一言二言、必要事項を言い交わしながら。

「まったく、グユクが身を挺したというのに深手を負った挙句取り逃したというのですから…… 謝罪の一つや二つは用意しておく事ですね」

クイの顔を少し見やったエ・レミナは、すぐに目線を逸らした────というよりは、外した。信用できる相手ではないが、特別警戒の必要も無いと現段階では判断した故だ。
エレルヘグの隣に並びながら、桃色の尾が波打つ。

「では戻り次第、本棚の増設を要求します。謝礼が出るそうなので、予算を割いて貰いましょう」
「はは、それは良い!可愛い弟分妹分にも読める本も、きっと入れてもらおうね?」

エ・レミナを茶化しながら、ゾーイはくるりと踊って、クイの肩へとしなだれかかった。二言三言交わす言葉は何だったか、ともかく「また会おう!」といつも通りの快活な笑みで軽やかに離れ、彼女は仲間たちの元へと舞い戻る。

「皆、本当にお疲れ様。助けてくれたお礼に、今日は満足するまで歌ってあげよう!心踊る冒険譚?心震わす恋物語?……ああ、エレルヘグを寝かしつける、子守唄っていうのもありだね」

礼というより、ただただ自分が歌いたいだけでは。そう思われる程度にはただただ楽しそうなゾーイは、エレルヘグの怪我の程度など顧みず、置き去りにしそうな勢いで小走りに先を行く。

────それでも、彼女が本当に仲間たちを置いていくことはないだろうと、クイは察していた。
途切れた連絡とナナモ新門前での騒ぎに、瞬く間に縄を抜け隊士の制止すら振り切って、鳥のように羽ばたいていった赤毛を見ていたから。

ウルダハを震撼させたこの事件は、とあるフリーカンパニーの活躍で以て収束した。と、のちに週刊『ミスリルアイ』にて掲載される。多額────と言いつつ、なかなか、におさまる程度の褒賞を受けた彼らは、今日も冒険者の鑑として活動しているのだろうと。

  • 最終更新:2019-06-12 18:21:15

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